『源氏物語』の作者、紫式部を主人公にした『光る君へ』。NHK大河ドラマでは、初めて平安中期の貴族社会を舞台に選び、注目されている。第42回「川辺の誓い」では、三条天皇が、藤原道長の次女・妍子を中宮としながらも、長年付き添った娍子も皇后にしたいと言い出した。押し切られた道長はやがて体調を崩してしまい……。『偉人名言迷言事典』など紫式部を取り上げた著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
三条天皇の「一帝二后」に道長が戸惑ったワケ
「娍子(すけこ)を皇后とする」
今回の放送では、木村達成演じる三条天皇はそう言い放ったが、藤原道長からすれば「ちょっと待ってくれ」と言いたかっただろう。
三条天皇は長和元(1012)年2月14日に道長の次女・妍子(きよこ)を中宮としたにもかかわらず、3月になってこんなことを言い出すとは、道長も予想外だったに違いない。
三条天皇は「一帝二后をやってのけた左大臣だ。異存はあるまい」と言う。確かに、道長は一条天皇には中宮の定子がいたにもかかわらず、定子を皇后とし、自分の長女・彰子を中宮とした。
だが、このときの定子は兄・藤原伊周(これちか)の不祥事によって出家しており、中宮が行うべき宮中神事が行えずにいた。また、定子の父・道隆はすでに病死しており、後ろ盾もない。道長が彰子をねじ込んだのは、自分の権力基盤を作るためだが、上記のような事情を踏まえると、それなりに正当化することはできた。
ところが、三条天皇は道長という後ろ盾のある妍子を中宮としながら、娍子まで皇后にするというのは「自分がそうしたいから」という理由でしかなかった。娍子の父は藤原済時(なりとき)という大納言だったことから、道長はドラマでこんなふうに異を唱えている。
「それは……難しゅうございます。恐れながら、近年では大納言の息女が皇后になった例はございませぬ」
道長は前回放送で、皇后どころか三条天皇が「娍子を女御とする」といった時点でも、こう説明している。
「娍子様は亡き大納言の娘に過ぎず、無位で後ろ盾もないゆえ、女御となさることはできませぬ。先例もございませぬ」
注目は道長が「亡き大納言の娘」と言っているところだ。娍子の父・済時が存命ならば、娍子を皇后とした後にしかるべく官位に上げて、後ろ盾にすることもできる。だが、済時はすでに亡くなっており、それも叶わない。
道長が一条天皇に迫った「一帝二后」とは似て非なるものだったが、ドラマでは三条天皇が「そなたがこれを飲まぬなら、朕は二度と妍子のもとには渡らぬ。渡らねば、子はできぬ。それでも、よいのか?」と脅して、強引に認めさせている。