細川内閣
自民党が単独で過半数を獲得できなくなると、他党と連立政権を組んで過半数に到達する。それは、他の民主主義諸国でも同様である。
今の自公連立政権は1999年の自民党、自由党、公明党の「自自公」連立から始まったが、2009年〜2012年の野党時代(民主党政権時代)を除いて、今日まで政権の座にい続けている。
さらに遡って見る。1993年7月の総選挙で自民党は単独過半数に達しなかった。自民党を離党した羽田孜の新生党、武村正義らの新党さきがけ、細川護熙の日本新党、社会党が躍進した。新生党は、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、民主改革連合と連立政権を樹立することで合意した。日本新党と新党さきがけは、統一会派を結成し、政治改革の断行を条件に、自民党と新生党の双方と連立交渉に入った。
日本新党と新党さきがけが、キャスティングボートを握ったわけである。非自民の新生党側は細川首相を提示し、日本新党を取り込んだ。日本新党は、社会党、新生党、公明党に次ぐ第4党にすぎなかったが、これによって非自民連立政権が誕生したわけである。新政党代表幹事の小沢一郎の豪腕であった。自民党の宮沢喜一内閣は下野した。
細川内閣の下で選挙方式が従来の中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変更された。
今の政局と比較すれば、国民民主党は当時の日本新党や新党さきがけと同じ立場、つまりキャスティングボートを握っている。また、政治改革の実現が協力のための条件となっていることも同じである。
細川内閣は、政治改革は実現したが、細川首相が唐突に国民福祉税構想を打ち上げたために政権内に亀裂が走り、また細川の佐川急便グループからの借入金処理問題を国会で追及され、1994年4月25日に退陣した。
その後4月28日には、非自民・非共産を継続した新生党の羽田内閣が誕生した。しかし、社会党が連立から離脱し、少数与党内閣となった。自民党と社会党の反発によって、6月30日には羽田内閣は退陣した。在任64日という短命内閣であった。