東海大甲府の快進撃を止めたのも父だった

 当時は県大会で1勝するのがやっとの普通の公立高校。思うように選手を集められるわけでもない。地域の中学生に声を掛け、集まってきた子たちを猛練習で徹底的に鍛えて県内屈指の強豪に育て上げた。

 就任当時、ちょうど高校野球に金属バットが導入された。勇には頑固なところがあって、どこのチームも金属に移行していく中で、塩山商は木製バットを使い続けた。

「普通に金属でやっていたら、もっと甲子園にも出られていたのに」と初鹿は苦笑しながら言う。後年は投手育成の名人と呼ばれるようになり、のちに大学No.1と高評価を受け中日からドラフト指名を受ける鶴田泰投手(現・中日球団職員)を駒大に送り出している。

 しかし1980年代に入り、高校野球の趨勢は、伝統的な「守り」の野球から、パワーを前面に打ち出す攻撃野球に変わっていく。

 山梨県でも81年に東海大甲府が県内の私学では初の甲子園出場を果たし、以来、圧倒的な強さで優勝回数を重ねていった。それに追随する形で、日大明誠、山梨学院といった私学勢が力をつけていく。

 勇は「打倒私学」に情熱を燃やした。東海大甲府は86年春から88年夏まで5季連続で甲子園に出場し、県内の公式戦で破竹の連勝を続けていたが、88年春、エース鶴田を擁して、これを35でストップさせたのが塩山商だった。

 私学の壁がどんどん高くなっていく中で、塩山商業は89年に校名を塩山高校に改称する。商業高校から普通科主体の総合制高校に切り替わったことで、選手獲得がますます難しくなり、部員数は年々減っていった。

「晩年はジレンマがあったと思います。これでどうやって勝つの?という。それでも『やっぱり練習しかない』と言って、ひたすら叩き上げてチームを作っていました。そのスタイルは、のちに私学に行ってからも変わりませんでしたね」と初鹿は言う。

 勇が公立高校の監督として最後の勝負に打って出たのが、初鹿が3年生になった93年のチームだった。(第2話に続く)

【矢崎良一(やざきりょういち)】
1966年山梨県生まれ。出版社勤務を経てフリーランスのライターに。野球を中心に数多くのスポーツノンフィクション作品を発表。細かなリサーチと“現場主義"に定評がある。著書に『元・巨人』(ザ・マサダ)、『松坂世代』(河出書房新社)、『遊撃手論』(PHP研究所)、『PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って』(講談社)など。2020年8月に最新作『松坂世代、それから』(インプレス)を発表。