いても立ってもいられず父兄のグループLINEに送りつけた言葉

「監督がそれを好きだったかどうかはわかりません。どこか寂しい気持ちがあったのかもしれません」と言う。勝負の世界にいる親子ゆえの、わだかまりとは違う、言葉では表せない微妙な感情があった。それだけに、息子にはそこまでのことを強要するつもりはなかった。時代も違う。

 子供の頃から、たまにグラウンドに連れてきてキャッチボールなどをしていた。一緒に野球ができることは、お互いにとってこの上ない喜びだった。ところが、その年の暮れから翌年にかけ、コロナの大流行が起こり、部活動はおろか、普通の学校生活が送れなくなった。

「生徒が学校に来られなくなりました。生徒のいない学校の先生なんて、本当に意味がない、ただのオッサンじゃないか、と。生徒がいて初めて先生なんだと気づかされました。日頃、『野球部の監督をしています』なんて言っていても、グラウンドに選手がいるから監督なのであって、彼らのお陰なんですよ。それがコロナの中ですごくわかって」

 そんな時に、近隣の高校でボヤ騒ぎがあった。食堂の厨房の天ぷら油に誤って引火し、それに慌てて水を掛けてしまったことで大ごとになったと原因を聞いた。

 家にいる生徒たちが、もし同じような状況になったらどうしたらいいのか。

「絶対に油に水を掛けたらダメなんだ。バスタオルを濡らして、水が滴らない程度に絞って鍋にかぶせて……」と考えていたら、そこから想像が膨らみ、「運転している自動車のブレーキが急に効かなくなって海に転落したら、泳げない自分はどうやって脱出したらいいんだ?」などと、いろんな「もしも」のケースが思い浮かんだ。

「早くあいつらに伝えなきゃ」と、吹き出すような感情を抑えきれず、初鹿は自宅にいる部員たちのメールや父兄のグループLINE宛てに、そうした場合の対処法などを書き記して送信した。

 一度送ると、またいろんなことが思い浮かんで、翌日、また翌日と新たに書いては送り続けた。次第に内容は事故対応から、自分の生い立ちや家族のこと、野球歴、指導者としての歩みなどに話が膨らんでいった。

 やがて『顔デカ監督のひとりごと』と自らタイトルを付け、毎日欠かさず発信を続けるうちに、いつの間にか、35号を数えた。