松平春嶽の工作と事実上の継嗣決定

松平春嶽

 安政4年12月26日、儒役林復斎・目付津田正路は京都に到着した。29日、武家伝奏広橋光成・東坊城聡長に対して海外の形勢を説き、アメリカの要求を容れて公使駐紮・貿易開始の止むを得なしの状況を論じたが、まったく効果はなかった。これは、使者の官位の低さも関係したかも知れない。

 安政5年(1858)1月9日、松平春嶽は老中堀田・松平忠固・久世広周に、堀田の上京前に将軍継嗣の内定を要求した。12日、春嶽は再度堀田に対し、外様大名からの厳しい要求で継嗣決定となれば、幕府の権威は失墜してしまう。朝廷からの沙汰による決定では、恥辱となり威光は地に墜ちると説き、出発前の決定を強く促した。これに対し、春嶽は堀田から前向きの感触を得ている。

 1月16日、春嶽は堀田から、将軍継嗣に慶喜を推すことを評議して、昨日には将軍家定に言上したことを確認した。20日、春嶽は堀田から、英断なし、つまり将軍家定の判断はなかったと確答を得ている。1月21日、堀田は江戸を発し、上京を開始した。また、堀田を補佐する岩瀬忠震は同20日、川路聖謨(勘定奉行)は同22日に出発している。いよいよ、舞台は京都に移行する。

 なお、実際には1月15日、将軍家定は「一橋ニ而は決而不相成義、御先々代様御続も御近之紀家と兼而御心ニ御取極被置候」と、台慮(将軍の意向)を即座に仰出ていたのだ。実はこの段階で、家定は慶喜では決して許しがたく、血統からしても慶福と以前から取り決めていると述べており、継嗣は慶福と決定していたことになる。堀田も当然、このことは了解しており、南紀派の勝利は決定的であったのだ。しかし、堀田はそれを隠匿したまま、上京の途についた。

 次回は、通商条約の勅許獲得の動向において、2度にわたる失敗の経緯を丹念に追いながら、将軍継嗣の3要件「英傑・人望・年長」がいかに扱われたのか、また、孝明天皇の真意はどこにあったのか、詳しく述べてみたい。