通商条約の交渉開始とその背景

 安政4年11月15日、堀田はハリスの演述書を諸侯に開示し、その要求を受け入れることは止むなしとして、その事情を述べるとともに答申を要求した。越前藩主松平春嶽ら有司大名の回答は、条件付ないし積極的な賛成に傾いていたが、彦根藩主井伊直弼ら譜代大名は、ハリスの江戸駐在に反対し、通商条約の締結には猶予を求めたのだ。

 注目すべきは、徳島藩主蜂須賀斉裕が「朝裁」(勅許)を条件とし、紀州藩主徳川慶福が「叡慮」に配慮し、衆議を尽くすべきと答申したことであろう。これは、これ以降、堀田政権による勅許獲得の動きに連結するものであり、注視すべき事柄である。

 堀田は諸大名にも諮問した上で、ハリスとの交渉を開始することを企図した。しかし、水戸藩の徳川斉昭を始め半数近くは、通商条約への反対を表明した事実により、逡巡せざるを得なかった。こうした状況に対し、ハリスは余りに進捗がないことにいらだち、艦隊の派遣や戦争の開始を示唆するなど、武力を背景にした砲艦外交に転換したのだ。

徳川斉昭

 ハリスの強硬姿勢に狼狽した堀田は、12月3日に至り、岩瀬忠震・井上清直を米国条約改訂談判委員に任命し、翌4日、岩瀬らはハリスと蕃書調所で会談し、全権委任状を交換した。この時、ハリスは修好通商条約16箇条及貿易章程6則の草案を提出しており、ここに通商条約に向けた交渉がスタートしたのだ。