(町田 明広:歴史学者)
堀田の老中再任とその理由
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが来航し、日本に和親(国交樹立)と通商(貿易開始)を求めた。翌嘉永7年(1854)3月3日、ペリーは再来日を果たし、日米和親条約に調印した。
この段階では、幕府は何とか通商は回避したものの、もう時間の問題であった。そこで、老中阿部正弘は積極的開国論を打ち出し、岩瀬忠震らを登用して安政の改革を断行した。具体的には、政治機構を改革し、海防の充実や海軍の創設等の軍事力の強化を図り、人材登用を中心に推進したのだ。
安政2年(1855)10月9日、堀田正睦は首座として12年振りに老中に復帰した。堀田は、既に46歳になっていた。しかし、老中首座とは言うものの、阿部死去(安政4年(1857)6月18日)までの1年半は、阿部が幕政を主導していた。
なお、堀田の復帰の理由について、佐倉藩政での手腕が買われたことが大きかったが、阿部の都合にも起因している事実は見逃すことが出来ない。阿部による職掌分業の意向、阿部の体調不良、阿部に対する政治的批判の回避などが挙げられる。しかし、最も重要であった事象は、堀田自身の開国志向であった。嘉永6年のペリー来航直後、阿部の諮問に対して、堀田は意見を上申した。阿部は、その堀田の考えを重視したのだ。