ハリスの来日と江戸参府問題

 安政3年(1856)7月23日、米国総領事ハリスは日米和親条約で開港された下田に上陸し、直ちに出府することを希望した。そして、ハリスは江戸での通商条約の交渉開始を主張したのだ。ハリスはイギリス使節バウリングが来航する前に、アメリカと条約が締結されていれば、それ以上の内容をバウリングは要求しないことを明言した。

 しかし、阿部は時期尚早としてハリスの出府に難色をしめした。ハリス出府は見通しが立たず、いたずらに時間が経過する事態となった。そのような中で、同年10月17日に至り、堀田は外国事務取扱・海防月番専任に任命された。

 また、10月20日には若年寄本多忠徳、大目付跡部良弼・土岐頼旨、勘定奉行松平近直・川路聖謨・水野忠徳、目付岩瀬忠震・大久保忠寛等を外国貿易取調掛に任命し、通商開始に関する措置を調査することを命じた。一連の人事によって、通商容認の方向性は誰の目にも決定的に映った。こうして堀田は、ハリス問題の矢面に立たされることになったのだ。

 安政4年(1857)3月20日、堀田は交易開始を前提とした海防掛への諮問の際、今後の方針を開示したが、その内容を確認しておこう。

富国強兵の実現には最も交易が重要であり、今すぐに「乾坤一変」(西欧が近代国際法に基づく体制に移行し、自由貿易を開始したこと)に便乗して通商条約を締結し、全世界に出貿易を行って優れた部分を取り入れて不足を補いつつ、富国強兵を実現した暁には、全世界の「大盟主」となるのは自明である。

 堀田の意見は、未来攘夷そのものの論理であり、それを前提にした諮問であった。しかし、事態はそう簡単ではなかった。海防掛は、開国に消極的な川路聖謨を代表とする勘定奉行・勘定吟味役グループと、積極的な岩瀬忠震を代表とする大目付・目付グループに割れており、意見の一致は非現実的であったのだ。

川路聖謨