遊女の派閥争いは妓楼にとって大打撃

 では、なぜ、吉原ではこんな理不尽がまかり通っていたのか。じつは、切実な事情があった。

 現代の職場でも、女性職員同士、仲が悪いことは珍しくないであろう。だが、仲の悪さがエスカレートして、職場で文房具を振りあげ、ののしるなどはない。というのは、職住分離しているからだ。

 仕事を終えて職場を出れば、翌朝まで顔を合わすことはない。休日は、まったく相手の存在を忘れていられる。それなりにストレス発散ができるといえよう。

 ところが、吉原の遊女は職住同一だった。客の男と寝るのも、衣食住の生活を送るのも同じ妓楼なのだ。いったん人間関係がこじれると、ストレス発散ができなかった。

 しかも、遊女は、花魁(おいらん)ごとに系列化され、花魁(上級遊女)——新造(下級遊女)——禿(遊女見習い)というグループになっていた。

 花魁と花魁が客をめぐって反目すると、グループとグループの対立となったのだ。そうなると、妓楼は収拾がつかなくなり、とても経営が成り立たない。いわば組織防衛のため、吉原の妓楼は、客に選択に自由を認めなかったのである。

 吉原は長い歴史がある。その歴史の中で生まれた、妓楼を運営していくための知恵と言えようか。しかも、自分たちの都合を「吉原の伝統と格式」にすり替えたところは、巧妙である。

 選択の自由がないことに疑問をいだかなかった江戸の男たちは、いい面の皮だったといえよう。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)