福永祐一に伝わる父・洋一の血脈
私の愛する公営・大井競馬場には、かつて騎手としても活躍していた福永二三雄調教師が所属していました。残念ながら20年ほど前に現役調教師のまま亡くなられていますが、競馬界では福永四兄弟のうちの次男として知られていて、春の天皇賞と有馬記念をレコード勝ちしたイナリワンの公営時代の調教師でもありました。
長男の福永甲(はじめ)と四男の福永洋一は中央競馬の騎手として活躍(福永甲は後に調教師に)、三男の福永尚武もまた公営・船橋競馬で活躍した騎手でした。その福永兄弟の中では、なんといっても「天才」として競馬ファンを沸かせた福永洋一の名前が忘れられないのは、私だけではないでしょう。
実働11年間におよぶ現役時代は競馬ファンの圧倒的支持を受け、人気のない馬に騎乗すれば「洋一が何かやってくれるのではないか」という期待感から単勝馬券の売り上げが増え、騎手が前任者から福永洋一に乗り替わったりすれば、レース展開が波乱含みとなったものでした。
福永洋一が落馬事故によって騎乗不能となり、事実上の引退となったのが昭和54年(1979)、30歳のときでした。9年連続して年間最多勝を継続中でもあり、騎手として最も脂の乗っていたときだったので、あと10年騎乗していたらいったいどんな記録が生まれたのか。また、昭和62年(1987)にデビューした武豊との新旧天才対決でどんなレースを見せてくれたのか。
武豊が「精密機械」のジョッキーなら、福永洋一は「奔放不羈(ほんぽうふき=自由自在)」のパフォーマーでした。どんな世界でも「~れば」「~たら」を口にすれば、それは単なる愚痴に過ぎなくなりますが、一度でいいから見たかった。
当時、テレビのドキュメンタリー番組でベッドに横たわる夫の洋一を甲斐甲斐しく世話する裕美子夫人の姿が映され、競馬ファンに限らず多くの人の涙を誘ったものでした。まさかあのとき2歳だった幼児が、その後、父と同じ世界に飛び込み、やがて父を超える記録を残し騎手生活を完走するとは、当時誰が想像したことでしょう。
夫の落馬から10年後、中学生になった息子・祐一の決断を知ったときの母親の心境や如何に。子供の安寧の将来を願い、大反対したのでしょうが、結局は我が子の強い意志を尊重したのは、この両親にしてこの子あり、といったところでしょうか。騎手・福永祐一誕生の瞬間でした。
何回も落馬や大怪我を経験し、昨年、騎手生活を終えた福永祐一。若い頃は、常に父と比較されて批判やヤジを受けたことも多かったのですが、27年に及ぶ現役生活では、父とは異なる独自の戦略を駆使し長期にわたり第一線で活躍、父がなしえなかった三冠騎手となり、見事な現役生活を全うしました。
競馬は「血のスポーツ」と称されますが、騎乗している騎手たちに流れる血にもドラマがあります。福永ファミリーの中で、天才・洋一に流れる血は、努力家・祐一へとしっかりと継承されていました。
種牡馬となったコントレイル、満7歳。そして昨年、調教師に転身した福永祐一、47歳。歴史に残る名コンビの今後のドラマにも注目です。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)