「オリンピックなら」「大谷なら」何でもいいのか

 オリンピックが特別なイベントであることはよくわかります。メダリストは一夜にしてヒーロー・ヒロインになり、テレビ局は番組を盛り上げ、視聴率アップに貢献してくれるヒーロー・ヒロインを重宝します。だから、テレビではオリンピックの開催前も、開催中も、開催後も、「メダル、メダル…」とメダルに執着します。それに乗って、あるいは乗せられて、国民も「一億総応援団」みたいになります。

 それは、大リーグの大谷翔平選手を当代随一のヒーロー扱いしていることと共通しています。もちろん大谷選手も、国民に勇気や希望を与える稀有な存在で、その活躍を伝えることは意義があることです。

 しかし、報道番組において野放図に、一辺倒に扱うのは異議ありです。

 メディア自身が熱狂し、理性を失った末に、合理的な判断ができなくなり、「オリンピックなら、大谷なら、何でもいいのだ」という暗示にかかっているようです。2つの民放キー局が、大谷選手が購入を決めたという自宅を詳細に報道したことで起きたトラブルも、そういう暗示に陥った事例として挙げられるのではないでしょうか、

 それだけではありません。当コラムの「テレビ報道に巣喰う『大谷依存』 何でもかんでも大谷選手の映像を流すのは報道人の思考停止だ」でも指摘したように、情緒的で過剰な報道は、本来伝えるべきニュースを落としてしまうこともあります。それは視聴者の不利益であり、国民の知る権利に十分に応えていないことになります。

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 とりわけ民放各局の夕方ニュースは「ポピュリズム(大衆迎合主義)」に傾きつつあると感じています。大谷選手のきょうの全打席、「きょうも異常に暑かった」という街の声などを長々と伝えることが多いのです。