【目的5】戦線の拡大による局地的な戦力バランスの改善

 上で述べた誘引を、戦略レベルで見ると、少し違った見方ができます。今回の作戦を指導したシルスキー総司令官としては、戦線の拡大による局地的な戦力バランスの改善が最も大きな狙いだったのではないかと思われますが、この点を指摘する声はなぜかほとんど聞かれません。

 2022年2月に全面侵攻が始まった際、ロシアはウクライナと接する全ての戦線から侵攻しました。一部はベラルーシからの攻撃もあったほどです。しかし、ウクライナ北部などで大きな損害を被ったことから、ロシア軍は4月には戦線を縮小しました。以後、2014年から占領を継続しているドネツク、ルハンシクに加え、ドニエプル川の南東側となる南部ヘルソン州などが実質的な戦線となっています。

 越境攻撃が行われる以前のウクライナとロシアの間に横たわる戦線を大まかに図示すると、次のようになります。

赤色の線は実際に戦闘が行われていた戦線、黄色はロシアが積極的な侵攻を行っていない戦線
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 ロシアの州で言えば、今回越境を受けたクルスク州、その南東にあたるベルゴロド州と北西にあたるブリャンスク州は、このロシア軍の作戦変更により、ロシアとウクライナが国境を接しながら、砲撃、ミサイル攻撃は行われているものの、地上戦力での戦闘が行われていない地域となりました。

 アメリカが、ウクライナにロシア領内への越境を禁じていたため、この地域は、ロシア人によって編成されたウクライナ側の部隊である自由ロシア軍が少数で攪乱と思われる越境を行う以外、大規模な地上戦は行われないエリアとなっていたのです。

 ロシアがキーウに向けて再侵攻を行う可能性は何度も指摘され、ウクライナはある程度の対応戦力を割いて、クルスク、ベルゴロド、ブリャンスクを含めた全戦線の防衛をしなければなりませんでした。

 しかしウクライナは越境攻撃ができなかったため、ロシアは戦力をドネツク、ルハンシク、南部ヘルソンに集中させることができました。今回の越境で明らかになったように、ロシア軍はクルスク、ベルゴロド、ブリャンスクなどには、まだ兵と呼ぶには未熟すぎる徴集兵を配置していただけで、その数も少なかったと見られています。

 ウクライナは全戦線への兵力配備という点で、アメリカの意向により、不利な状況を強いられ続けたことになります。しかし今回、越境攻撃をアメリカが追認したことにより、ロシア側もクルスクはもとより、ベルゴロドやブリャンスクにも、ある程度の防衛戦力を配置せざるを得なくなります。なお、8月22日に入り、そのブリャンスク州にも越境攻撃が開始された模様です。「レッドラインだ」との発言によって政治的にアメリカを抑止し、達成した、ロシアのウクライナ東部、南部への戦力集中を阻害したことになります。

 しかも、ロシア側への越境であるため、ウクライナの国土自体が脅かされるわけではありません。

 現在の戦線を大まかに図示すると、このように変わりました。

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 冒頭で書いた通り、越境開始直後は、東部の苦境が伝えられていたため、今回の越境攻撃に対し、越境を行うくらいなら、その戦力を東部に投入すべきだとの意見も多く聞かれました。しかし、それでは、ウクライナだけが広範な防衛態勢を構築させられている構図を維持することになってしまいます。

 ただし、長い戦線で戦うと、当然それぞれの地点で戦力が薄い状態となるためリスキーではあります。

 さらに言えば、ウクライナの置かれた実情は、この簡略化された戦線図よりも厳しいものです。

 べラルーシは、直接参戦こそしていませんが、2022年の全面侵攻時にはロシア軍を通過させていますし、ロシア軍によるベラルーシ領内からのミサイル攻撃も許しています。

 2022年4月にロシア軍が戦線を縮小した以後は、ベラルーシからの脅威も低下していますが、現在も一部のロシア軍が駐留していると見られ、ウクライナ側としてはある程度の備えが必要になっています。

ウクライナ、ベラルーシ、モルドバの位置関係

 トランスニストリアは、モルドバの一部地域ですが、1992年のトランスニストリア戦争以後、沿ドニエストル共和国を名乗っており、2022年10月にロシアが併合宣言するまで存在していたドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国と同様に、事実上のロシア領です。

 トランスニストリアは、黒海へのアクセスにもドニエストル川を通行しなければならないため、2022年以降もロシアは駐留兵力の大幅な増強をできずにいますが、現在もロシア軍が駐留しています。そのため、ウクライナはこの方面にも備えが必要なのです。

 ベラルーシ、トランスニストリア方面も含めた戦線図を図示するとこうなります。

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 このため、クルスクへの越境攻撃が行われてからは、以前から耳にすることのあった、このトランスニストリアへ侵攻するという噂がにわかに活気づいています。

 モルドバとの共同作戦、あるいは侵攻後にトランスニストリアをモルドバに明け渡すなどの措置をとれば、ウクライナは南西方面の後背を脅かされる可能性がなくなり、残された戦線に兵力を集中させることができるようになります。