犬山城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

織田信雄時代に築かれたとされる天守

 天守は、日本の城を見る上で最大のハイライトだ。城を訪ねて天守がパッと見えたとき一気にテンションが上がった経験は、城の好きな人なら誰しもお持ちだろう。

 面白いことに、現存する12棟の天守や、写真などから外形を知ることのできる天守を見比べてみると、1棟1棟すべて形が違っていることがわかる。天守は、他と似ることが許されない自己主張の強い建物なのだ。

 そんな天守の中から、今回は犬山城天守を選んで徹底鑑賞してみよう。犬山城天守は、コンパクトで一見シンプルに思えるが、実はデザインが研ぎ澄まされている。デザインという観点から見る面白さに満ちた天守なのである。

 さて、犬山城は木曽川を望む丘陵の突端に築かれているが、木曽川は尾張と美濃の国境でもある。そんな要衝の地だから、戦国時代からずっと城があって、織田方の諸将が入っていた。本能寺の変で織田信長が斃れた後、尾張は織田信雄が領するところとなって、犬山城もおおむね現在見る形に整えられた。現存する天守も、原型は信雄時代に建てられたものらしい。

犬山城樅ノ丸下に残る空堀。犬山城を訪れる観光客のほとんどはスルーしているが、天守以外の数少ない見所だ

 信雄が没落した後は豊臣秀次領、次いで福島正則領となって、いずれも支城主が入った。関ヶ原合戦ののち尾張は徳川義直領となったが、犬山城には附家老の平岩親吉が入り、親吉が没して平岩家が絶えると、替わって成瀬家が入って代々続いた。天守も、成瀬家が入った直後の元和6年(1620)頃に形が整えられて、現在見る姿になった。

黒門跡。石垣が左右で食い違いになって通路を折り曲げている。犬山城は縄張上の見所はここくらいだ

 こんなふうに、犬山城は要衝ではあるもののずっと支城の扱いだったから、城そのものは決して大きくない。近世城郭としては規模も縄張も並以下で、本来なら名城・堅城と評すべき城ではない。でも、そんな「並以下」の城に、こんなカッコイイ天守が建っているというのが、逆に面白いところだ。

真っ正面から見た天守。右手前に付櫓が張り出している。左奥にも張り出しがあるが、もう少し天守に近寄らないとわかりにくい

2か所の付櫓の役割

 というわけで犬山城天守を、まずは正面(南側)からじっくり眺めてみよう。全体は三重になっていて、正面から見ると初重と二重目がほぼ同大、三重目がぐっとコンパクトになって、「目鼻立ちのくっきりした小顔」という印象を受ける。二階建ての御殿のような大きな屋根の上に、小さな櫓を載せたような構造になっているからで、このタイプを「望楼型(ぼうろうがた)」という。

天守左(西面)奥の付櫓。側面に窓が開いていて、天守の西側面を見通すことができる

 この天守は右手前と左奥に張り出し、つまり付櫓がある。付櫓が2つあるので、ぱっと見は図Aのような形をしているように思えるが、さにあらず。よく観察すると、右手前の付櫓が斜めに出ているのがわかるだろう。この建物の平面は、ずいぶん変則的な形をしているのだ(図B)。

 天守一階(初重)の平面形が大きく歪んでいる様子は、天守の内部を注意深く観察すると、よくわかる。また、2か所の付櫓が何の役割を果たしているのかも、内部から観察すると一目瞭然だ。

天守一階内部の東側。画面奥の隅が鈍角になって、壁が斜めになっているのがわかるかな?床板と壁の関係を注意するとわかるよ

 付櫓は、天守に突入しようとする敵や、天守の側面に回り込もうとする敵を、狙撃するための施設なのである。その証拠に、付櫓の上部に小さな天窓が設けてある。鉄炮の発射煙がこもらないようにするための、煙抜きである。

天守右手前に出ていた付櫓。なるほど斜めに出ている。切妻屋根と、その下にある小さな天窓にも注意したい

 天守の一階を堪能したら、二階に上がってみよう。大きく歪んでいた平面形は、二階で整った長方形へと収まっていることがわかる。さらに階段を上がると、三階が中二階(屋根裏部屋)になっていて、最上階の四階へと導かれる。

 天守最上階(四階)に達すると、ほとんどの観光客は廻り縁(バルコニー)を一周して景色を眺め、満足して帰ってしまう。何と、もったいない。あんた、犬山城に何を見に来たの?といいたい。この階には、犬山城天守の秘密が満載だというのに! (つづく)

天守最上階には廻り縁と高欄が備わっている。廻り縁を一周しながら景色を眺めたくなるが……