「来ないでくれ」と言わんばかりの駅舎では…

 フィンシュガウの経験から明確に学べることが数多くある。第一は、「輸送密度が低い」ということと、「鉄道の可能性がない」というのが、実はイコールではないということである。

 輸送密度はあくまで現在のサービスの水準・品質や設備の状況、競合するクルマやバスとの相対的な利便性の差などから決まってくるものである。可能性をしっかり見極めて誰もが受容する高水準のサービスを提供すれば、フィンシュガウ鉄道のようなボロボロの鉄道であっても再生の可能性が十分にあるということでもある。

 日本の赤字ローカル線と言われるところに乗ると、朽ち果てた窓をベニヤ板でふさいだ駅舎や跨線橋のように、もはや「来ないでくれ」と言わんばかりの設備を見ることがある。列車の本数も決して多くはなく、3~4時間、列車の間が空くことも珍しくない。

 壊れた窓をベニヤ板でふさいだボロボロの建物で、超短時間だけ営業するお店で積極的に買い物をしたいと思わないように、このような鉄道や公共交通を使ってくれというのはいくらなんでも無理がある。

 フィンシュガウから学ぶべき第二の点は、車両や駅などの鉄道の設備や、列車本数などサービス自体が使いたいと思う水準になっていなければ、いくら可能性がある鉄道でもそれを十分に引き出せないということである。フィンシュガウはこういったボロボロの状況を、公共投資によって徹底的に改良することで、見事に再生させた事例である。

 第三の学ぶべき点は、駅を鉄道の乗降のための場と限定せず、ホームも含め自由に出入りできる場とすることで、公共空間として再生できることである。

 フィンシュガウの駅の空間の中に、待合とコミュニティの機能が重層的に作られていることは、シュランダース駅の写真が物語る。むろんボロボロの駅ではだめで、建築の意匠もしっかり復元したことが功を奏しているわけであるが、鉄道利用者以外も駅を訪れるきっかけとなる。

 そして関連する第四の点は、駅の外側から列車に至るまでの動線をしっかり作りこむことの重要性である。日本の地方部に行くと、無人駅でも「駅舎」の脇に出入り口1か所だけで、そこを経ないと乗り降りできないという例が多々あるが、遠回りを強いることはすなわち駅周辺の鉄道利用ポテンシャルを下げるということでもある。

 ナトゥーンス駅のように、一つ一つの駅の市街地と列車の間の動線をなるべく素直なものとする改良で「駅勢圏」を広げることも、乗客を獲得のポテンシャル拡大につながる。また自転車と鉄道の関係は後編で触れるが、シンプルかつバリアフリーな動線は自転車利用者の鉄道利用にも一役買っている。

 そして最後に重要な学ぶべき点は、サービスの定着は一朝一夕ではなく、長い時間がかかる、という当たり前の点である。

 フィンシュガウ鉄道の年間利用客数が250万~270万人で安定するまでに、開業から4~5年ほどかかっている。サービスが認知され、進学や転勤などの交通行動が変わる機会も相まって、少しずつ人々の交通行動が変わっていくまでには、それなりの時間がかかるのである。

 フィンシュガウ鉄道の要した4~5年は、おそらく定着までの変化としては速いほうであろう。

 ところで、この一連の改良を実現するために州政府はそれなりの投資を行っているわけだが、税を原資とする公共のお金であるから、適当に自由に使えるものでもないし、効果がない投資も許されない。

 後編となる次回は、南チロルがどんな公共投資をし、どんな効果を実感しているのか、それを紐解いていく予定である。

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