イ.鄧小平

 1976年に毛沢東が死去すると、その後の権力闘争を勝ち抜いた鄧小平は1978年末の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議において、後に改革開放政策と呼ばれる新たなイニシアチブを開始した。

 またこれとほぼ時を同じくして、1979年1月に米中の国交が正常化され、米国と中華民国は断交した。

 改革開放政策は周辺諸国との経済関係の強化を必要とし、また米国が米華相互防衛条約を破棄したことで、新たな台湾政策をとることが中国にとって必要かつ可能となっていた。

 こうして打ち出された新たな政策が「平和統一」と「一国二制度」である。

 毛沢東時代、台湾はあくまで中国共産党によって「解放」されるべき対象であったのに対して、「平和統一」という言葉はより柔軟な方式による統一を示唆するものであった。

 1979年1月1日、全国人民代表大会(全人代)常務委員会は「台湾同胞に告げる書」を発表し、軍事的敵対状態の収束に関する協議を台湾側に呼びかけると同時に、それまで続けてきた金門島への砲撃を停止することが宣言された。

 よりはっきりとした方針が体系的に示されたのは、1981年9月30日に発表された「葉剣英全国人民代表大会常務委員会委員長の台湾の祖国復帰、平和統一実現の方針・政策に関する談話」である。

 9カ条からなることから「葉九点」とも呼ばれる。「葉九点」の骨子は次の通りである。

①第三次国共合作により祖国の統一を実現する。

②「三通」(郵便・通信、通航、通商)と「四流」(学術、文化、スポーツ、工芸の交流)の実施。

③国家の統一が実現したのち,台湾は、特別行政区として、高度な自治権と軍隊を保有し、外国との経済・文化関係を維持できる。

④台湾の現行社会・経済制度を変えず、生活様式を変えない。

⑤台湾当局と各界代表は、全国的な政治機構の指導ポストにつき,国政に参与することができる。

⑥台湾の地方財政が困難に陥ったとき,中央政府は,情況を見て補助を与える。

⑦台湾の各民族人民、各界の人たちで祖国大陸に帰って定住したい者に対しては、適切にこれを受け入れ、差別扱いをせず、自由に行き来できるよう保証する。

⑧台湾の工商業界の人たちが祖国大陸に投資し、各種の経済事業を起こすことを歓迎し、その合法的な権益と利潤を保証する。

⑨祖国の統一については,すべての人に責任がある。

 その中でも、①、②、③という点が重要であった。

 鄧小平の「平和統一」と「一国二制度」という台湾政策は、毛沢東時代からの大きな転換であり、また現在まで継続する台湾政策の基軸となっている。

 ただし、鄧小平が当初想定したほど早期の解決は望めなかった。

 それは第1に台湾側の反応が消極的であったこと、第2に米国の台湾への関与が想定していたよりも深かったことによる。

 蔣経国は「三不政策」(妥協せず、接触せず、交渉せずという政策)を取り、1987年まで中国との対話に消極的姿勢を見せた。

 また、米国は1979年に「台湾関係法」を成立させ、武器輸出を継続させた。