ウ.江沢民

 1989年の天安門事件を経て中国共産党総書記に就任した江沢民は、当初鄧小平の台湾政策を継承し、両岸(中台)関係の緊張緩和と平和的統一を追求した。

 1987年以降、台湾は対話を拒絶する従来の姿勢から転換し、中国との対話姿勢を見せ始めていた。

 双方の実務を協議する民間の機関として1991年に台湾で海峡両岸基金会(海基会、会長・辜振甫)が、中国で海峡両岸関係協会(海協会、会長・汪道涵)が設置された。

 1995年1月、江沢民は「江八点」と呼ばれる台湾政策の方針を明らかにした。「江八点」は

①「一つの中国」原則の堅持、
②台湾が外国と民間の経済文化関係を発展させることに異議を唱えないが、「二つの中国」、あるいは「一つの中国、一つの台湾」を作り出そうとする活動に反対、
③両岸の平和統一交渉を進める、
④平和統一の実現に努力し、中国人同士(大陸住民と台湾住民)が戦うことをやめる、
⑤両岸経済交流と協力を大いに発展させる、
⑥中華文化の継承・発揚、
⑦台湾同胞の正統な権益保護、
⑧指導者の相互訪問から成っていた。

 この方針では全般的に穏健な色彩が示されていたといえる。

 しかし中台関係は、李登輝総統の訪米ビザ問題をきっかけとして悪化し、1995年から1996年にかけて第3次台湾海峡危機が起きるに至った。

 米クリントン政権は李登輝総統が母校コーネル大学の招聘に応じて訪米するのに際し、議会圧力からビザの発給を許可した。

 これに対して中国は一挙に態度を硬化させ、李総統の訪米に合わせて海軍・空軍の演習や「DF-15」ミサイル実験を実施した。

 さらに1996年の台湾総統選挙に合わせてミサイル発射や着上陸訓練を含む大規模な演習を行い、台湾に対する圧力を強化した。

 なぜ中国は強硬な反応を見せたのか。

 第1の理由は、台湾における民主化の進展である。

 中華民国の台湾化と民主化が進むことで、台湾が中国との正統政府をめぐる争いをやめ、「台湾独立」を目指すようになったとの認識があった。

 第2の理由は、米国など西側諸国が中国を敵視し、これを封じ込めるために台湾を利用し、その国際的承認を推進しようとしているとの中国の認識である。

 こうして中国は前述の通り、1995年夏から台湾海峡においてミサイル実験を開始し、1996年に入ると台湾総統選挙を前にして大規模な軍事演習を実施した。

 このような行動の目的は、米国に対して中国の決意を伝えて介入を思いとどまらせること、また米国の出方をうかがうこと、台湾の独立傾向に対して警告を与え、かつ選挙の行方に影響を与えることであったと思われる。

 1995年のミサイル実験に対して米国の反応がそれほど強硬でなかったことから、中国の指導部は、米国は介入しない、あるいは介入してもシンボリックなものにとどまると考え、1996年の大規模演習を開始した。

 しかし、米国は空母「インディペンデンス」と空母「ニミッツ」を中心とした2個空母戦闘群を台湾海峡に向けて派遣したため、中国は台湾に対してそれ以上の軍事的圧力を加えることができなくなった。

 1999年、李登輝総統が両岸関係を「特殊な国と国との関係」と表現したことを、中国は独立に向けたさらなる動きと捉えた。

 さらに、2000年の総統選挙では独立傾向の強い民主進歩党(民進党)の陳水扁氏が勝利した。

 これは中国からすれば、台湾の独立に向けた挑戦が新たな段階に達したことを意味していた。

 総統選挙戦のさなかの2000年2月、中国の国務院台湾事務弁公室は「台湾問題と一つの中国原則」と題する台湾白書を発表し、中国の立場を主張した。

 その中では武力行使の条件として、

①台湾にいかなる名義でも中国から分割される事態が出現した場合、
②外国が台湾を占領した場合、
③台湾当局が交渉を通じた両岸統一問題の平和的解決を無期限に延期する場合、

という3つが挙げられた。

 特に第3の点は新たに盛り込まれた点であり、陳水扁氏に対する牽制と思われる。

 さらに中国は「一つの中国」の再定義を行った。

 2000年8月、銭其琛副首相は「世界には一つの中国しかなく、大陸も台湾も共に一つの中国に属し、中国の主権と領土の一体性は分割できない」という新たな「一つの中国」の定義を宣言した。

 従来の「一つの中国」原則は、中国の唯一の正統政府は中華人民共和国であるという点に大きな力点があった。

 しかし中華民国の民主化と台湾化が進む中で、中国の正統政府を争うことに関して台湾側の関心は薄れていた。

 原則の再定義は、こうした状況に対応して、いかなる形式においても台湾が分離するのを防ぐという新たな力点を示したものといえる。