3.台湾の対中国政策の変遷

(1)日本の敗戦から台湾の民主化まで

 1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾すると、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、「対日一般司令」第1号(SCAPIN-1)(1945年9月2日)の中で、中国大陸と台湾にいた日本軍に対し、中国戦区最高司令官蔣介石への降伏を命じた。

 蔣介石は、陳儀を台湾省行政長官兼同省警備総司令に任命し、台湾における降伏接受を命じた。

 10月17日、国軍第70軍と長官公署官員が台湾に到着した。

 遅れて10月24日陳儀自身が台湾に到着した。翌10月25日に台北市で台湾における日本軍の降服を受諾する式典を行った。

 日中戦争に勝利した後の中国において、1946年6月から中国共産党(人民解放軍)と中国国民党(国民革命軍)の内戦が続いた。

 国共内戦の過程で国民党は中国国民の支持を得られず、翌年共産党軍に敗れて、蔣介石は敗北の責任をとって1949年1月21日に引退、副総統李宗仁が職務を代行することとなった。

 1949年10月1日、北京で共産党の毛沢東を首席とする中華人民共和国が成立、国民政府はその1949年12月に台湾に移ることを決定した。

 台湾に入ると、蔣介石は1950年3月1日、「中華民国」総統に返り咲いた。

 台湾は1949年5月から1987年まで、国民党蔣介石・蔣経国総統のもとで戒厳令が布かれ、自由な言論、結社・政治活動の自由は抑圧された。

 中華民国は、1945年10月24日に創設メンバーとして国際連合に加盟した。しかし、中華人民共和国が成立すると国連の代表権が問題となった。

 米国は日本などと結んで、台湾追放を阻止しようとしたが、1971年の総会で代表権変更、台湾追放が採決された。

 1970年代に入ると、米中が急接近したことによって、台湾は大きな苦境に立たされることとなった。

 1975年4月には蔣介石が死去し、子息の蔣経国が1978年に総統となった。

 蔣経国は父が発布した戒厳令を継続し、独裁政治が続いたが、そのもとで米国資本の援助や日本の民間との交易によって経済を発展させ、工業化・開発が進められていった。

 蔣経国の国民党一党独裁のもとで、開発独裁といわれる積極的な工業化が進められ、中国大陸で文化大革命の混乱が続いて台湾海峡危機が弱まったことも幸いし、経済成長を成し遂げて「奇跡」ともいわれた。

 一方で民主化の要求が強まると、国民党政権は次第に妥協せざるを得なくなり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。

 1986年には初めて野党として民主進歩党(民進党)が結成されるなど、民主化運動が盛り上がると、蔣経国はついに1987年7月15日、戒厳令を解除した。

 そしてその翌1989年1月13日に急死し、李登輝が副総統から昇格して、台湾生まれ(本省人)としての初めての総統となった。

 1990年3月、全国から結集した学生が民主化の実施を要求、李登輝は学生側の要求に応じる形で、翌1991年4月に、1946年12月25日に制定された「中華民国憲法」を改正し、動員戡乱(かんらん)時期臨時条項(共産党との内戦が継続していることを前提として総統に憲法を越える権限を認めた臨時法)を廃止して内戦状態の終結を宣言。

 1991年12月には国民大会の終身資格を持った議員を引退させ、民主的な選挙と国会の開設を約束した。

 これは大陸出身者(外省人)優位の条項を廃止し、台湾生まれ(本省人)の地位を高めた。

 1996年3月には、総統の任期満了にあたり、台湾で初めて国民の直接選挙による総統選挙が実施され李登輝は再任された。

 こうして台湾では、総統選挙・国会議員選挙が行われ、島民が総統と国会議員を直接選挙するという民主政治が実現した。