斉彬による慶喜面談と斉昭という爆弾

 嘉永6年(1853)8月10日、松平春嶽が老中阿部正弘に初めて一橋慶喜の擁立について入説した。しかし、阿部は同意をしたものの時期尚早と判断し、春嶽にまだ胸に留めるよう釘を刺した。なお、この頃から斉彬は春嶽と連携を開始したと考える。

徳川慶喜

 安政3年(1856)11月、斉彬は養女篤姫を実子として13代将軍徳川家定へ入輿させた。これは幕府からの要請であり、よく誤解されるような、将軍継嗣問題に絡む権謀術数ではなかった。しかし、斉彬は篤姫の地位の利用を画策するようになり、西郷隆盛に命じて大奥工作を図ることを企図した。しかし、篤姫は斉彬の期待に応えようと努めたものの、そう簡単に首尾よくは運ばなかったのだ。

天璋院(篤姫)

 安政4年(1857)3月27日、斉彬は慶喜と初対面を果たした。一橋派を代表して、斉彬による採用の最終面接のようなイメージである。斉彬は、「実に早く西城に奉仰候御人物」(春嶽宛書簡、4月2日)と、将軍継嗣に相応しい人物と評価している。その一方で、「御慢心之処を折角御つゝしみ御座候様、被仰上候て可然と奉存候」と、慶喜の自信過剰な態度を戒める必要性を助言することも忘れなかった。

 また、斉彬は春嶽に対し、この段階で慶喜継嗣のことを申し出て、万が一不都合になった場合は、かえってそれ以降の差し障りになるだろうと考えており、伊達宗城も賛同していると付言した。さらに、斉昭の評判が芳しくないため、慶喜推薦を控えることを助言し、斉昭と距離を置くことまで勧告している。一橋派にとって、慶喜実父の斉昭の存在が大きな障害となっていたのだ。

 次回は、斉彬による西郷隆盛を起用した、将軍継嗣問題を有利に運ぶための工作とその帰結について、真相に鋭く追ってみたい。