将軍継嗣問題と一橋派・南紀派

 将軍継嗣問題とは、13代将軍徳川家定の継嗣決定をめぐって、一橋慶喜(17歳)を推す一橋派と紀州徳川慶福(家茂、8歳)を推す南紀派による派閥抗争である。家定は暗愚・病弱とされ、12代家慶時代から憂慮されていた。しかも、ペリー来航時、衆望を集めた水戸斉昭が期待外れであったため、将軍継嗣問題が俄然クローズアップされたのだ。

 南紀派の推進者は、紀州藩附家老の水野忠央(ただなか)とされ、大奥工作が大々的になされ、水野自身の妹を家慶の側室にしている。また、彦根藩主井伊直弼もコアメンバーとされており、安政元年(1854)5月および翌2年(1855)1月に、老中松平乗全(のりやす)に継嗣(名前は挙げず)の必要性を伝達した。血統の重視、外部意見の拒否、斉昭への嫌悪の3要素によって、南紀派は結束を固めていた。

水野忠央

 一橋派の推進者は、斉彬・徳川斉昭・松平春嶽ら有司大名が中心であり、そこに水戸藩関係者(安島帯刀・平岡円四郎ら)、老中阿部正弘、岩瀬忠震らの海防掛らが加わった。一橋派は、英明・年長・人望ある将軍(=慶喜)のもとで、幕権の再強化を図りながら、自己の幕政参画を期待していた。

松平春嶽