(歴史ライター:西股 総生)
城の石垣とは、崩れるもの
2016年4月の熊本地震のとき、知り合いの城好きの女性は、熊本城の石垣が崩落した映像を見て泣いてしまったそうだ。世の中には、そうした人も少なくないのかもしれないが、筆者は「あー」という感じではあったけれど、悲しくはなかった。城の石垣とは、そもそも地震や大雨で崩れるものだ、と思っていたからである。
江戸時代にも近代に入ってからも、全国各地の城の石垣は、しばしば地震や大雨で崩れてきた。われわれがいま見ているのは、幸運にも崩れずに残った石垣か、ないしは人々がせっせと復旧した石垣なのである。築城から何百年も、ビクともせずに残っていて当たり前などというのは、現代人の勝手な思い込み(または憧れ)でしかない。
白河小峰城の石垣も、2011年3月の東日本大震災であちこちかなり崩落した。崩落したけれども、関係者の懸命の努力によって、いまは立派に修復されている。なぜ、こんな話を書いたかというと、白河小峰城の魅力は一にも二にも石垣にある、と思うからだ。
いま、東北本線で白河駅に着くと、黒壁と白壁のコントラストも鮮やかな三重櫓(御三階櫓)が、目に飛び込んでくる。江戸時代に描かれた詳細な図面をもとに、木造で復元された櫓で、実質的には天守といってよい建物だ。
史実に忠実な復元天守(事実上の)が、駅からこんなに近い場所に建っている事例は東日本では他にない、という意味では、たしかに一見の価値がある櫓である。であるのだけれども、この城の本当の価値と魅力は、やっぱり石垣の方に宿っている、と思うのだ。
もともと白河小峰城は、豊臣時代に会津を領した蒲生氏郷や上杉景勝が、支城として築いたものだ。中心部をきゅっとコンパクトにまとめられるよう、小さな丘を城地としたのも、支城として少ない兵力で守備するためだった。
そののち紆余曲折があって、1627年(寛永4)に丹羽長重が当地に10万石で封じられて、城をいま見る形に整えた。長重は、安土築城で奉行を務めた丹羽長秀の嫡男だから、築城はお手の物だったのだろう。
しかも、この地は白河石の産地である。白河石は良質の安山岩で、石灯籠や墓石、建築部材などに重宝されてきたから、城の石垣にもうってつけのマテリアルだった。こうして小峰城は、寛永年間の最新技術で作り込まれた、コンパクトながら凝った造りの平山城となった。
のちに丹羽長重は二本松へと転封となって、白河小峰城には譜代諸家が交替で入ることになる。奥羽への玄関口にあたる白河は、幕府にとって戦略の要衝だったからで、寛政の改革で知られる老中・松平定信も、白河藩主であった。
政治史的にはいろいろな評価のある定信だが、几帳面というか生真面目な人物だったらしく、家臣に城内の櫓を門の実測調査を命じて、詳細な図面集を作成している。三重櫓が復元できたのも、そのおかげだ。
そんな歴史を反芻しながら、城内を歩く。ものすごく壮大というわけではないけれど、小刻みに屈曲しながらタイトな縄張を形成する石垣が、日に映えて美しい。美しく感じるのは、石の加工や積み方が丁寧だからだ。
この城で、もうひとつ魅力的なのは、街の中心部に高い建物がないこと。すぐ隣に新幹線の新白河駅ができて、高層建物がそちらに建ち並んだおかげで、旧市街の方は地味な地方都市のままだ。でもその分、コンパクトな名城が、ちゃんと街のシンボルになっている。
観光客向けのアピールも何となくチグハグ感があるのだが、そんな不器用さも、この街の魅力かもしれない。アピールされる情報に踊らされることなく、訪れた人が、自分なりに小さな魅力を見つけて歩く・・・そんな楽しみ方のできる城と街である。
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