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石川県珠洲市でドクターヘリに患者を運び込む人たち(2024年1月22日、写真:共同通信社)石川県珠洲市でドクターヘリに患者を運び込む人たち(2024年1月22日、写真:共同通信社)

(文:上昌広)

阪神・淡路大震災や東日本大震災の当時と比べ、日本の高齢化率は著しく上昇した。高齢被災者に対する支援は、いわばこの社会が新たに抱えた難題だ。在宅医療、訪問看護、訪問介護といった自宅がベースの高齢者向けサービスは災害時には停止する。そして緊急避難が終わり長い復興期が始まれば、こうした民間頼みのサービスに公的支援は存在しない。医師・看護師の有志が支援のために年休を取るような医療界の硬直した制度運用も被災地の人手不足を深刻にしている。

 能登半島地震が発生してから、1カ月が経過した。240人が亡くなり(2月1日現在)、大勢が避難生活を送っている。

「避難先の高齢者をどう支える」(1月29日読売新聞社説)のように、マスコミは連日、被災者支援のあり方を論じている。このような議論の前提にあるのは、「被災者支援は国の仕事」という考え方だ。

 災害対応で国の果たす役割が大きいことは議論の余地がない。国民の命を守ることは、国の責務だ。ただ、だからと言って、国に依存し、思考停止することは危険だ。それは、我が国が、人類史上初の超高齢社会に突入しているからだ。

 能登半島は、特に高齢化が進んだ地域だ。このような状況での被災者支援の方法は確立していない。そうなれば、試行錯誤を繰り返すしかないが、これこそ国が不得意とする領域だ。本稿では超高齢社会における被災者支援のあり方について論じたい。

平成以後、我が国の災害対応は進歩した

 被災者の救助・支援を国が中心になって行うようになったのは、そう古い話ではない。戦前まで、災害支援に関する法律は、1899年(明治32年)に制定された罹災救助基金法しか存在せず、国の責務は被災者の経済的支援だけだった。

 この時期、被災者の救助はもっぱら日本赤十字社の仕事だった。現在でも、被災者救助から義援金分配まで日赤が大きな役割を果たすのは、このような歴史的な経緯があるからだ。

 状況が変わったのは、1946年(昭和21年)の南海地震だ。戦後の国民主権意識の高揚もあり、この災害を契機に災害救助法が制定され、被災者の救助・支援が国の責務となった。

 その後、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風、1978年(昭和53年)の宮城県沖地震などが起こったものの、昭和の間は、自然災害については比較的落ち着いた状況が続いた。

 平成に入り、状況は変わった。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災以降、我が国は多くの災害に見舞われた。このような経験を経て、我が国の災害対応は進歩した。被災地では、自衛隊、ボランティア、災害派遣医療チーム(DMAT)が活動し、被災市町村には、平素より交流がある市町村から職員が短期および長期出向するようになっている。

 厚生労働省管轄の国立病院機構が運営するDMATおよび自衛隊の派遣は国が支援主体であり、地方公務員の派遣は地方行政、個人およびNPOは民間レベルでの支援活動だ。被災地支援は官が主導し、足りない部分を民が補完するようになった。

 私が医師になったのは1993年(平成5年)だ。それ以降、3回の震災と関わることになった。最初は阪神・淡路大震災で、実家が被災した。次は東日本大震災。ご縁があって、福島県浜通りの医療支援に関わっている。そして今回だ。医療ガバナンス研究所の医師、看護師たちが能登半島に入り、診療や支援を継続している。

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