元日に発生した震度7の地震により、能登半島の復旧の目処はたたず、人々の暮らしは非常事態のままだ。政府は連休明け9日に予備費の使用を閣議決定すると発表し、対応の遅れが批判されている。
緊急時対応が問われる一方、能登半島の復旧・復興のあり方も今後、議論されていくだろう。阪神淡路大震災から29年を迎える今年、長く神戸のまちを見守り続けてきた元朝日新聞・宮崎園子氏が神戸市長田区から「復興」とは何かを考える。
6400人以上が犠牲となった29年前の大震災
震度7、マグニチュード7.3。
大地震から29年後の神戸市長田区に、1月2日昼、わたしはいた。駆け出しの新聞記者時代から20年、転勤でまちを離れた後もずっと付き合いが続いていた大切な取材先が亡くなったとの報をその日の朝に家族から受けたからだ。
1995年1月17日早朝、淡路島を震源として発生した大地震が神戸市内・阪神間を中心に約25万棟の建物を破壊し、6434人もの尊い命を奪った阪神淡路大震災。神戸市全体の全焼建物6965棟の7割近くにあたる4759棟が全焼したのが長田区だった。
更地と工事の槌音、そして歪んだアーケード
わたしが赴任した2002年、甚大な被害があったJR新長田駅南地区には、更地に市の復興再開発事業の槌音が響いていた。その一角に、歪んだ古いアーケードが残ったままの一画があった。地震発生から7年が過ぎ、震災の傷跡を残す数少ない「地震の生き証人」も、その年に撤去された。
かろうじて残った部分のアーケード内で倒壊した店舗を再建し、まちおこしに奔走する夫と息子を側面支援して地域の人たちの信頼を集めていたのが、このほど亡くなった田中紀子さん(77)だった。