2012年には、ヨルダン川西岸地区と主にユダヤ人が住む地区を分割する壁の約62%が完成した。これ以降自爆テロの件数は大幅に減った。2003年にはテルアビブやエルサレムなどで12件の自爆テロが発生し、イスラエル人135人が死亡した。2004年には8件の自爆テロのために86人が犠牲になった。だが2015年、2016年に起きた自爆テロの件数は、それぞれ1件ずつに留まり、死者はゼロだった。つまり壁は、自爆テロによる被害を減らす上で効果を示したのだ。

 私は2015年にイスラエルを訪れた時、「2003年に比べてテロに対する警戒が大幅に緩和された」と感じた。ホテルの入り口の金属探知機や、レストランの入り口のガードマンも見られなかった。空港から出国する時の検査も、2003年ほど厳しくなくなった。海岸の遊歩道をパトロールしていた兵士たちの姿も消えた。2015年頃から2020年のコロナ・パンデミック勃発まで、テルアビブやエルサレムなどは、多くの外国人観光客で賑わい、新しいホテルが次々に建設された。つまり壁建設によって自爆テロの件数が大幅に減ったことで、イスラエルの警戒態勢が緩んでいた可能性もある。

 また近年イスラエル軍が、テロリスト摘発のための活動の中心を、ヨルダン川西岸地区のジェニンやヘブロンなどに置いていたことも、ガザ地区の警戒が手薄になった理由の一つかもしれない。イスラエル軍はガザ地区のフェンス周辺に多数の監視カメラやセンサーを設置し、ドローンでフェンス周辺の状況を監視していた。イスラエル軍のハイテクノロジーへの高い信頼と依存が、ガザ地区周辺での警戒を緩ませたという見方もある。

司法改革で深く分断されたイスラエル社会

 もう一つの理由は、ここ数年間のイスラエルの内政上の混乱である。テルアビブ在住の作家リジー・ドロンさんは、ネタニヤフ政権に批判的な、リベラル派に属する市民である。彼女は、ネタニヤフ政権が目指した司法改革をめぐり、イスラエル社会が大きく二つに分断されていると語る。ネタニヤフ首相は、2021年6月に政権樹立に失敗し、首相の座を退いた。彼は汚職や詐欺の疑いで検察庁から起訴されていた。だがネタニヤフ氏は2022年12月に、保守的な正統派ユダヤ教徒を支持基盤とする、極右政党の助けを借りて、首相に再選された。

 イスラエル社会をリベラル派と保守派の間で真っ二つに割っていたのは、ネタニヤフ政権が目指す「司法改革」だ。司法改革が実現すると、議会は裁判所の判決に反した決定を行うことができるようになる。裁判所の判決を無効化するに等しい。さらに、政府の代表が、裁判官選任委員会の中で過半数を占められるようになる。これも、裁判所に対する政府の統制を強めるための措置だ。

 リベラル派の市民は、「ネタニヤフ首相の意向が実現したら、三権分立が廃止され、イスラエルは法治国家ではなくなる」と主張し、しばしば15万人もの市民がテルアビブなどで抗議デモを繰り広げた。

 イスラエルはこれまで、中東で唯一の民主主義国家だった。だがネタニヤフ首相の目論見は、この国を大きく変質させる危険がある。つまりネタニヤフ政権は、内政の混乱に気を取られて、ガザ地区で準備されていた大規模テロの予兆をキャッチすることに失敗した可能性がある。

 ちなみにネタニヤフ首相は、10月9日の記者会見で、「我々は中東を変える」と述べた。これは何を意味するのだろうか。私は、彼が考えているのはイスラエルの仇敵イランだと思う。しかし今回の大規模テロで利益を得たのはイランだ。イラン政府は、ハマスの大規模テロへの関与を否定した。だがガザのテロ組織ハマスとイスラム聖戦機構がイランによって武器や資金面での援助を受けていることは、中東では公然の秘密だ。

 さらにイラン政府のホセイン・アミール・アブドラヒアン外務大臣は10月17日に「抵抗戦線の予防的行動は、今後強まる。抵抗戦線はイスラエルがガザ地区などでこれ以上軍事行動を取ることを許さない。抵抗戦線は、イスラエルとの間で長期戦を行う用意がある」と語った。抵抗戦線とは、イランだけではなくレバノンのヒズボラ、イエメンのフーシの他、シリアやイラクなどの親イラン武装勢力を意味する。

 ドイツの論壇では、イラン外相のこの発言は、イランの強硬姿勢を示唆するものと解釈されている。ドイツの半官半民の研究機関「科学政治財団」のハミドレザ・アジジ研究員は、ドイツの日刊紙に対して「アブドラヒアン外相は、イスラエルに抵抗する勢力のスポークスマンのような役割を果たしている」と述べている。

 ハマスの大規模テロは、イスラエルがサウジアラビアとの間で目指していた関係改善に水をさした。イスラエルとサウジアラビアはイランを中東最大の脅威と見なし、諜報機関が協力を始めていた。だがハマスのテロによって、両国の関係改善は当面の間棚上げになった。サウジアラビア政府は、アラブ世界で高まるイスラエル批判を無視して、ネタニヤフ政権との関係回復を進めることはできない。漁夫の利を得たのは、イランである。

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