仲本工事さん。1974年3月11日撮影(写真:共同通信社)仲本工事さん。1974年3月11日撮影(写真:共同通信社)

 昨年の10月19日夜22時過ぎ、ザ・ドリフターズのメンバー仲本工事さんが入院先の横浜市内の病院で息を引き取った。享年81歳であった。

 前日の18日朝9時ごろに横浜市保土ケ谷区にある交差点近くの道路を横断中、ワゴン車にはねられ頭部を強く打った仲本さんは、救急車で病院に搬送され手術を受けたものの、意識は戻らず、そのまま天国に旅立ってしまったのである。

 ただ、この交通事故には、そこに至るまでの“伏線”があった。それを理解しないと、その後に巻き起こった仲本さんの“妻“純歌さんへの大バッシングの経緯も分からなくなる可能性があるので、仲本さんの一周忌を機に、事故当時の状況と、それに伴う仲本さんの行動を振り返ってみたいと思う(以下、敬称略)。

第1回 不意に襲ってきた週刊誌報道と格闘しながら迎えた最期
第2回 苦悩の末に電話、週刊誌に「告白」した娘との会話
第4回 約束の時間に現れなかった仲本工事
第5回 仲本さんの死後も止まなかった純歌さんへのバッシング報道

新潮記者の来訪

 話は新潮が発売された日の10日ほど前に遡る――。

 横浜にある純歌の自宅アパートに若い女性記者が訪ねてきたのは夕方6時近かった。ときおり小雨が舞う寒空の下、ドアの前にその記者は立っていた。突然来訪を受けた純歌は取材の意図をさっぱり理解できなかったが、記者の名刺を受け取り、ドアの外に出て対応したという。

 純歌によれば、そのときのやりとりは以下のようなものだった。

――仲本さんと別居していますが、それはなぜですか?

 純歌はカレー店を開いた意味や、船釣りに行くのに便利だからということで別居はしているけれども2人の仲が悪いこともなく、毎日のように仲本と会っていることを説明していった。しかし、女性記者はその返答に満足しなかった。

――男性と一緒に住んでいるんじゃないですか?

 それは全く違うし、間違った憶測でしかないと純歌は強く否定したが、女性記者はなおも追及の手を緩めることはなかった。

――では部屋の中を見せて下さい。

 筆者は純歌からこのことを聞いて耳を疑った。そして2度、3度と純歌に問い質したのだ。

「本当に記者がそんなことを口にしたの?」

「本当ですよ。外が雨模様で『部屋に入れて下さい』と最初から言っていたのでおかしいと感じていましたが、それが部屋に男がいることを確認したいからという意味だったようです。なんで部屋を見せる必要があるのか、本当に腹が立ちました」