久山町の田園風景。この風景は、何もせず残ったわけではない

「御料理茅乃舎」と「茅乃舎だし」で知られる久原本家。同社が本社を置く久山町は、豊かな自然環境と独自のまちづくりで知られる。「茅乃舎」が生まれた背景と根底に流れる思想、それを育んだ久山町のまちづくりの哲学を解き明かす。その2回目。

※1回目「高級だし市場を生み出した『茅乃舎だし』、その根底に流れるまちづくりの哲学」から読む

(篠原 匡:編集者・ジャーナリスト、蛙企画代表)

※著者がナビゲーターを務めるテレ東ビズ「ニッポン辺境ビジネス図鑑~福岡県久山町編~」も併せてご覧ください!

 久山町は今から50年以上前の1970年に、町の面積の97%を市街化調整区域に指定した。市街化調整区域とは、都市計画法で定められた「市街化を抑制する区域」のこと。この区域では、住宅や商業施設などを建てる場合は行政への許可申請が必要になる。つまり、町の大半に開発規制がかかっている。

 町も、時代にあわせて市街化調整区域を変更し、住宅地や商業地への転用を進めてきた。ただ、住宅地にある住宅の売買は自由だが、新規の開発は町がコントロールしているため、住宅開発が野放図にされるということがない。

 このような規制を導入したのは、久山町の2代目町長を務めた小早川新氏である。

7期28年にわたって久山町長を務めた小早川新氏(写真中央)(写真:共同通信社)
日本中が経済優先、開発優先で動いていた時代に、久山町はあえて開発規制を敷いた。写真は東名高速道路の建設風景(写真:AP/アフロ)

 当時は高度経済成長のまっただ中、日本中が経済優先、開発優先で動いていた時代だ。その中にあって、自然環境や田園風景、農村集落のコミュニティが再評価される時代が来ると主張。それを守っていくために開発規制を敷いた。

 直後の1972年に、首相となる田中角栄が『日本列島改造論』を上梓したことを考えれば、どれだけ時代に逆行した政策かがわかるのではないか。

 以来、久山町は「環境」「健康」「教育」の3つの軸でまちづくりを推し進めてきた。そのまちづくりは、第二次臨時行政調査会、通称「土光臨調」を率いた土光敏夫氏も「地方行政の模範」として高く評価している。

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