北方領土への移民コミュニティだった寺院

 北方領土は過去一度も外国の領土になったことのない日本固有の領土である。江戸時代、幕府は北方四島・千島列島・樺太の蝦夷地を日本の直轄領として開拓に着手。1855(安政元)年の日露通好条約においては、択捉島の北側に引かれた国境を、両国が確認している。

 色丹島は、北方領土海域で漁をする船の避難港として整備された。そして北方領土海域は世界でも有数の漁場として発展していく。

 明治に入ると、北海道は新政府によって本格的に開拓が進められることになる。しかし、北海道はあまりにも広く、また新政府の予算も潤沢ではなかったため、地方の藩や有力寺院などに土地を分け与えて支配させたのである。これを分領支配という。

 1869(明治2)年、東本願寺(真宗大谷派)や増上寺(浄土宗)が開拓事業に参画すべく、新政府に申し出ると、同年9月に増上寺に充てがわれた地域のひとつが色丹島であった。この時、正式に増上寺の寺領として組み込まれている。

 だが、増上寺の寺領であったのはわずか1年ほど。1870(明治3)年に新政府に上知(土地の没収)されている。当時、日本は神仏分離政策を断行中であり、仏教への風当たりが強かった。寺院の境内は、宗教儀式で使うための土地以外はことごとく没収されている。

 先に述べたように明治期以降、北方領土を含む北海道全土に、寺院(神社も)が次々と進出。本州からムラ単位で入植する際に、寺院・神社が一緒にくっついていった。

 つまり寺院は、移民のコミュニティを強化する役割であり、故郷の象徴でもあり、開拓中に死んでいったムラ人の弔いの場だったのだ。これは明治時代以降に行われたブラジルやハワイへの移住と同じ構図である。