東京・青物横丁の海晏寺境内に残る大きな砲弾

78年目の終戦記念日を迎えた。戦争を語り継げる人はわずかになり、リアルに当時を実感できる機会が減ってきている。しかし、戦争の悲劇を、ありありと残す場所がある。各地の仏教寺院である。境内に戦死者の墓(奥津城=おくつき)や「砲弾」「天牌(天皇の位牌)」などが残されており、帝国主義の面影を感じることができる。本稿は『絶滅する墓 日本の知られざる弔い』(NHK出版新書)を元に、再構成した。#戦争の記憶

(鵜飼 秀徳:作家、正覚寺住職、大正大学招聘教授)

日中戦争を契機に始まった「戦時戒名」

 先祖を守るため、子孫は墓や仏壇を継承していき、いずれはその子孫も先祖になっていく――。

 江戸時代より続いてきた弔いの慣習は、一般的には長男が祭祀継承権のすべてを相続する仕組みである。長男以外はイエから出て、新しいイエをつくり、そして、最初の先祖になる。これが、江戸時代の寺請制度以降の、日本の先祖崇拝の考え方だ。

 しかし例外的にイエから外れ、一族墓とは別に大きな墓を立てて祀られてきたのが、英霊である。遠く戦地において失われた若き命は、菩提寺に丁重に祀られた。

 戦前、各宗門は、檀家の中で戦死者が出た場合の慰霊について、末寺に指示している。戦死者の戒名には、もれなく最高位の「院」や「居士」が与えられた。また、戒名には「義」「烈」「勇」「忠」「國」「誠」などの国粋主義を連想するような文言が選ばれている。これを戦時戒名という。

 例えば、「報國院義烈○○居士」という名付け方である。戦時戒名は日中戦争を契機にして付けられ、終戦をもって完全に姿を消している。

 軍人戦死者の葬儀や埋葬は特別扱いであった。たとえば曹洞宗の場合、末寺は本山に報告。大本山貫主からは代理が送られ、弔辞が読まれた。また将校(少尉)以上の軍人には、戒名に必ず「居士」を付けるよう命じている。太平洋戦争が始まるとその制限もなくなり、戦死したすべての兵隊に「居士」が付けられた。