松本城の黒門と天守 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

◉石川数正が築いた松本城は名城か?(前編)

武田氏の城に特徴的な技法

 松本城は、天守なければタダの城、である。では、なぜ石川数正は、その程度の城に甘んじたのか?

 松本城で、天守に次ぐ見どころといえば、復元されている黒門と太鼓門であろう。この二つの門は、高麗門と櫓門で四角く囲まれた枡形になっているが、よく見ると枡形のプランが面白い。

 近世城郭の枡形は、通路が直角に折れる形をしているのが普通だが、松本城の黒門・太鼓門は直進する通路を前後にずらした「 」みたいな形をしているのだ。この枡形は、戦国時代に武田氏が多用したスタイルだ。というより、武田氏勢力圏以外の戦国期城郭で、このタイプの枡形を使っている例は見たことがない。

二ノ丸に復元された太鼓門。近世城郭の枡形としては珍しいスタイルだ

 また、かなりの城マニアでも気づかないが、松本城二ノ丸の北西隅には、土造りの丸馬出がある。丸馬出も、武田氏の城に特徴的な技法だ。松本城の縄張りは、全体として武田カラーが濃いのである。

武田信玄が本拠とした躑躅ヶ崎館の枡形。松本城の太鼓門と同型である

 おそらく、深志城に入った石川数正は、武田時代の基本プランをそのまま踏襲し、堀幅を多少広げる程度で済ませたのではないか。そして、本丸と主な虎口を石垣で固め、天守を建てることで近世城郭としての体裁を、どうにか整えた。

 ただ、天守だけは五重の大きなものを建てることにした。城全体での難攻不落は期待できないので、その分、天守で防禦力を稼ごうというわけだ。松本城は完全な平城で遠望が効かないから、その意味でも司令塔となる天守には高さがほしかったのだろう。

松本城は完全な平城なので、そのままでは遠望が効かない

 城全体の中で天守正面の堀だけ、やたらと幅が広いのも、それゆえではないか。天守の防禦力を確保するために、正面の堀を思い切り拡幅したのだろう。

天守正面の水堀だけが不自然なほど幅広となっている