(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
未成のまま放棄された「台場」
今回は、品川台場の「おまけ編」である。第3台場・第6台場の他にも、幕末における江戸湾海防政策の残影をたどれる場所が、何か所かあるからだ。
1.第4台場跡
品川台場の第4台場は未成のまま放棄され、のちに埋め立て地となっていった。現在の天王洲シーフォートスクエアの一画が第4台場跡で、地割に面影をたどることが出来るほか、石垣の石材が護岸に転用されている。シーフォートホテル駐車場のところに説明板がひっそりと設置されているが、気付く人はほとんどいない。上の写真は天王洲大橋から撮ったもの。なお「シーフォート」とは海上要塞=台場の意。
2.御殿山下台場跡
品川台場として完成した6基のうち、いちばん西側に位置する陸上の1基。京浜急行北品川駅の東400メートルにある、その名も台場小学校が跡地だ。地図で見ると台場小の一画は地割が五角形をしていて、台場のプランをそのまま踏襲していることがわかる。
3.浜川砲台跡
品川と川崎の中間点である立会川には土佐藩の下屋敷があったので、藩では幕府に申請して独自に台場を築いた。これが浜川砲台で、京浜急行立会川駅から旧東海道を渡ったところにある公園が、その跡地だ。若き日の坂本龍馬も砲台の警備に当たっていたので、立会川駅の前には龍馬像が建っている。
公園には現在、大砲のレプリカが置かれているが、当時の史料に記載されたタイプの砲を復元してあり、なかなかよく出来ている(旧式砲ではあるが)。
この他、佃島にも台場が建設されたが、現在は市街地化して面影をとどめておらず、説明板が立つのみとなっている。