スーダンを退避した邦人らを乗せ、ジブチの空港に着陸した自衛隊機(写真:共同通信社)

 2023年4月15日、それは唐突に始まった。スーダン国内で、スーダン軍と準軍事組織である即応支援部隊(RSF)が衝突したのだ。

 4月20日、在留邦人退避のため、航空自衛隊の輸送機が、スーダン隣国のジブチ共和国へ飛んだ。その5日後、ジブチ経由でポート・スーダン国際空港に入った輸送機が、在留邦人45名を回収。無事、ジブチへ帰投した。

 この救出劇における自衛隊の活躍を、当たり前のように感じる人がほとんどではないだろうか。
 
 しかし、自衛隊海外派遣の歴史は意外にも短い。自衛隊海外派遣に係る法律ができたのは、1992年。わずか30年前まで、自衛隊が海外に赴くことは認められていなかったのだ。

 自衛隊海外派遣はなぜ長らくタブーとされていたのか、いかにして自衛隊海外派遣が実現したのか──。『自衛隊海外派遣』(ちくま新書)を上梓した加藤博章氏(日本戦略研究フォーラム上席研究員、関西学院大学国際学部兼任講師)に話を聞いた。(聞き手:関 瑶子、ライター・ビデオクリエイター)

──本書における、自衛隊海外派遣の定義について教えてください。

加藤博章氏(以下、加藤):日本政府による定義では、自衛隊海外派遣は「武力行使を伴わない部隊の派遣」となっています。書籍においても、それに準じた定義をしています。

──1954年6月2日に、参議院で海外出動禁止決議が採択されました。採択に至るまでの経緯について、教えてください。

加藤:1950年に発足した警察予備隊は、1952年に保安隊へ、1954年7月1日には自衛隊へと移行します。自衛隊の発足を機に、かつての旧日本軍のように海外へ行き、戦争をするのではないか。そう思う人もまだ多い時代でした。

 そこで自衛隊の動きに歯止めをかけるため、海外出動禁止決議が採択されるに至ったのです。海外出動禁止決議は、自衛隊に対する警戒から出ました。

 海外出動禁止決議が採択される以前、国会で「海外派兵」の定義について議論がなされました。それに対し、法制局は「武力行使を含む軍隊の派遣」と回答しました。これが、現在に至るまで自衛隊の海外での活動の基準となっているのです。

──1978年12月のベトナム社会主義共和国によるカンボジア侵攻により、カンボジア難民問題が発生しました。日本政府は当初、経済的な支援のみを行っていましたが、1979年12月に医療チームの派遣を決定しました。この医療チームの派遣が、その後の日本の海外への人的支援に及ぼした影響について教えてください。

加藤:カンボジア難民問題が発生する以前に、インドシナ難民問題がクローズアップされていました。ボートピープルの人たちと遭遇した日本船舶は、難民を見殺しにすることはできません。彼らを救出し、日本に連れて来なければなりません。

 そのような経緯もあり、日本でもインドシナ難民問題への関心が高まっていました。こうした中で起きたのがカンボジア難民問題です。

 カンボジア難民問題では、メディア、特にワイドショーが大きな役割を果たしました。難民キャンプの様子がお茶の間に流れました。難民問題に対して、日本も人的な支援をすべきだ、という声が大きくなっていきました。

 そのような世論を受け、政府は現地に医療チームを派遣します。しかし、世論が盛り上がってからの派遣でしたので、初動が遅かった。そこで政府は、今後、同様の事態が起こることを想定し、1982年3月に国際救急医療チーム(JMTDR)を設立したのです。

──1985年のメキシコ地震及びコロンビアの火山噴火による災害発生時には、日本から国際緊急医療チームが派遣されました。この派遣で得られた教訓や課題は何かありますか?