連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
さぁ、夏が来た。いよいよ祭りの季節到来である。
神社で執り行われるものを祭り、仏閣の縁起にちなんで行なわれるものを縁日という。
祭りとは、この世に生を受けた喜び、人が神の意図に復答する尊崇、祖先への感謝、郷土に対する愛着など、地域社会に暮らす人々の共通の思いを表現するものである。
祭礼はそれらを儀式化し、民俗行事化したものである。
あの熱狂的な高揚と、人々、自然、神々との一体感に、私たちは祭りの真義を観取できる。
お祭りは秘語で、交会(きょうかい:淫色)の俗称異名とされる。この種の名には寝まつり、裸まつり、暗闇まつりと呼ばれるものがある。
古来より男女の交わりは、五穀豊穣や子宝祈願などと関連づけられ、濡れ事に耽溺するのは神の恵与であり、その恍惚の瞬間、人は神の領域に脚を踏み入れる――とされてきた。
このような考えは古今東西に存在し、チベットでは宗教的核心としてとらえる宗派も存在する。
日本でも各地の祭礼は、生きることの喜び、肉体の交わりとその愉悦が神の意思であることを祝うものだった。
祭りが性交の秘語とうかがわせる句がある。
「木遣が聞こえてお祭りを子に見られ」(威勢のいい木遣を聞いて子供が目を覚まし、夫婦の性愛行動を目撃されてしまった)
「祭り前気ばかり咳き込む提灯屋」(性行為を目前に、昂ぶる気持ちとは裏腹にイチモツが萎縮している)
狂歌にも「年寄り、お祭りで渡す時は、提灯で餅を搗くたとえあり」とあり、「お祭りで渡す」は性交する、「提灯」は勃起不全で、萎んだ肉茎が提灯を畳んだ状態に似ているのがその由来。
「提灯で餅を搗く」とは、提灯を杵にしても餅を搗けないことから、老人がいざ、セックスをしようと気持ちを昂ぶらせるも、肝腎な時にムスコが役に立たない、というトホホな意がある。