(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
「渋谷城」の伝承地
大都会のど真ん中、渋谷に「城跡」があるといったら、皆さん驚くだろうか? いや、正確には「城跡伝承地」というべきなのであるが…。
若者で賑わう渋谷の駅を東口側に降りたら、渋谷警察署の前を通って明治通りを行く。ここで大切なのは、前回・前々回の稲付城や平塚城のときのように、地形を観察しながら歩くことだ。
渋谷駅からどこかへ行こうとすると、たいがいは道玄坂、宮益坂といったような坂を上ることになる。渋谷駅は、丘陵に囲まれた谷底のような地形に位置しているのだ。
明治通りも、渋谷川に沿った谷の中を通っている(警察署と反対の側を歩くとわかる)。さて、警察署から300メートルほどのところで左に折れて坂を登ると、金王(こんのう)八幡神社のこんもりとした社叢に行き当たる。渋谷駅から10分と歩かない場所に、こんな緑があったのかと、ホッとするが、ここの境内こそが渋谷城の伝承地なのである。
もともと桓武平氏の末裔である渋谷氏の一族が、この地に屋敷を構えたのが「渋谷」という地名の由来だ。平安時代の末期、その一人だった渋谷金王丸は、若くして源義朝に仕えて保元の乱で大活躍する。
しかし、義朝は平治の乱に敗れて東国へと逃れる途中、尾張で裏切りにあって落命。このとき多勢に無勢ながら奮戦した金王丸は、逃れてのち出家して義朝の菩提を弔った。以降も、子孫は武士として渋谷の地を領し戦国時代に至ったという。「金王八幡」の名も、こうした故事にちなんだものだ。
歴史的背景がわかったら、観察してきた地形をイメージして頭の中でビルや舗装道路を消してみよう。明治通り沿いの商店街は渋谷川がさらさら流れる谷筋で、中世には水田が広がっていただろう。それを見下ろす小高い丘の上に、渋谷氏一族は屋敷を構えていたわけだ。
しかも、八幡社の東側を南下して渋谷川を渡り、代官山方面へと通じる八幡通は、かつての鎌倉街道と伝わっている。なかなか要害にして要衝ではないか。となると、渋谷城がどんな城だったのか、想像をふくらませてみたくなるのだ。
しかし長年、関東地方の中世・戦国期城郭を専門に研究してきた筆者からすれば、残念ながらこの場所を「城」と認めることはできない。なぜかとというと、鎌倉・室町時代の地方武士は、自分の屋敷をいちいち城構えにはしないのが普通だからだ。何より、立地が城に適していない。