会津若松城 写真/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

鶴ヶ城といえば、誰?

 会津若松城、いや、ここはやはり鶴ヶ城と呼びたい。その鶴ヶ城の名を聞いて、皆さんが想い起こす歴史上の人物は誰だろう? 保科正之(ほしなまさゆき)、松平容保(まつだいらかたもり)、白虎隊、あるいは飯島八重だろうか。僕の頭にまっ先に浮かぶのは、蒲生氏郷(がもううじさと)だ。

三ノ丸に立つ新島八重の像。あの女優には似てないが、スナイドル銃を手にした姿は凜々しい

 近江で生まれた蒲生氏郷は、織田信長に仕えて頭角を現し、のち豊臣秀吉に才を買われて伊勢松坂の城主となった。天正18年(1590)に秀吉が全国を統一すると、氏郷は42万石で会津に封じられ、さらに加増されて最終的には92万石もの大封を得た。

 もともと会津には蘆名氏という戦国大名がいたが、秀吉が全国統一を成し遂げる直前に、伊達政宗は蘆名氏を滅ぼして会津を併呑していた。秀吉は、政宗による一方的な「現状変更」を認めず、会津領を取り上げて代わりに氏郷を入れたのである。

 氏郷が入ったときの会津は、つついた蜂の巣そのものであったし、すぐ北には伊達政宗・最上義光(もがみよしあき)といった、油断のならない大勢力が控えていた。つまり、秀吉は氏郷の能力を高く買って、豊臣政権の「奥州占領軍総司令官」に任じたのである。

 さて、会津に入った蒲生氏郷は、蘆名氏や伊達政宗が居城としていた黒川城を、本格的な近世城郭へと全面リニューアルした。これが、いま見る鶴ヶ城の原形だ。

会津若松城の天守は明治維新で取り壊されたので、現在は鉄筋コンクリートで外観復元され、当時の赤瓦も再現されている

 何せ、奥州鎮護の任を担うべく築かれた鶴ヶ城なのだから、全国的に見ても屈指の堅城に仕上がっている。天守だけで、この城を見た気になるのはあまりにもったいない。ぜひ半日くらいかけて、石垣や堀など見て回って欲しい。天守が鉄筋コンクリート製の「復元」なのに対して、石垣や堀は「本物」だからだ。じっくりと向き合うことで、この城の真価が堅城ぶりがジリジリと伝わってくるというものだ。