平沢の死の数年後、私は武彦さんを訪ねた。

 高円寺の線路際のアパート。6畳一間の部屋には閉め切って澱んだような重い空気と匂いが漂っていた。そして部屋の中には平沢が獄中で描いた絵が所狭しと立てかけてあった。武彦さんは以前よりも更に寡黙になっていた。彼は再審請求人として平沢の死後も帝銀事件の再審請求を続けていたが、平沢の死で彼の何かが壊れてしまったようでもあった。

平沢武彦氏の部屋には平沢貞道死刑囚が獄中で描いた絵が所狭しと立てかけてあった(写真:橋本 昇)
拡大画像表示

「お父さんの無実を信じて今も活動を続けておられるのですか?」という質問にも、僅かに顔を緩めただけで答は返ってこなかった。

 ただ一度、刑務所の面会に通った時の話になった時だけ彼の顔に表情が現れた。

「あの時は毎日疲れ果てていました。ああ、あの絵ですね! あれには苦労しましたよ。絵心なんて持ち合わせていないんですから。無茶振りですよね」

 そう言って彼は瞬間顔を崩した。その時、彼の心の奥には未だ養父である平沢との心の絆だけが住み着いているのだと感じた。

「冤罪」が狂わせた家族の人生

「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げた武彦さんの実父の森川哲郎氏は1982年に病気で亡くなっている。後を継いだ形の武彦さんは孤独感も持ちながら養父である平沢との絆を深めていったのだろう。まだ20代の青年にとって、それはあまりにも重い選択だった。

 その後、武彦さんは体と心の病を患い、自殺未遂もあったという。

 そして2013年10月、自宅アパートでひっそりと亡くなっているのが発見された。

 その報を聞いた時、私の心の中を冷たい隙間風のような風が吹き抜けていった。

帝銀事件の平沢貞通死刑囚が獄中で描いたセルフポートレートとともに暮らす養子の平沢武彦氏(撮影:橋本 昇)
拡大画像表示

 なお、請求人死亡の為、19次再審請求審理は終了したが、2015年になって平沢元死刑囚の遺族によって第20次再審請求が申し立てられた。

 はたして帝銀事件のミステリーは解き明かされるのだろうか、それとも時間の流れの中で風化していくのか…。

 獄中から無実を訴え続けた平沢貞通はこう言っていたという。

「自分だけの事なら諦めることもできるが、妻や子供や孫たちが帝銀事件の犯人の家族として社会から迫害され続けていくのは我慢できない。命のある限り闘い、家族を救う」

 この平沢の思いは、そのまま、数多くある冤罪を疑われながらも解明されていない事件で犯人とされた者とその家族の切実な思いなのだ。