仙台の拘置所から八王子医療刑務所に移されていた平沢死刑囚がもう危ないようだ、という報が入ったのは1987年の2月の終わりのことだった。マスコミはこぞって刑務所の前で張り込んだ。そして無実を訴えながらも死刑囚として獄中で命を終える平沢の無言の出獄を一目記事にしようと待ち構えていた。
私もその一人だった。その年は寒い冬が続いていたのか、八王子の刑務所の前の坂道にいつまでも雪がちらちらと舞っていた光景を思い出す。
獄中で酸素チューブを鼻に挿して眠る平沢貞通死刑囚
武彦さんは毎日決まった時間に面会に訪れていた。彼が面会を終えて出てくると記者たちがワッと取り囲み平沢の様子を聞いてはメモを取るという毎日が続いていた。
「今日はぐっすりと眠っている父の顔を見ているだけでした」
「お父さんと呼びかけると時々こちらに顔を向けるような仕草はするのですが、意識が朦朧としているようです。だから面会といってもただ横にいるだけですが…」
武彦さんは物静かで言葉も少ない。
そんなある日、私は武彦さんにあるお願いをしてみた。
「お父さんの今のご様子をスケッチしてもらえませんか」
彼は暫く考えた後に誠実そうな顔をこちらに向けて答えた。
「どれだけ描けるかわかりませんが、描いてみます。ビジネスホテルに泊まっているのでそこで仕上げましょう」
その日、武彦さんはホテルの机の上で一所懸命にスケッチと格闘し病床の父親の絵を完成させた。