判決の日、袴田さんを支え続けた支援者たちの号泣する姿がその長い闘いの苦労を物語っていた。中でも袴田さん本人が体調を崩してから代理として闘ってきた姉・秀子さんの安堵した笑顔が印象的だった。

袴田巌さんと姉・秀子さん。2015年3月撮影(写真:山口裕朗/アフロ)

 人生の大半を冤罪との闘いに費やすのは本人だけではない。家族もまた終わりの見えない長い闘いを共に闘うのだ。

 袴田事件再審開始の報を聞いて思い出すのはひとりの青年のことだ。

 平沢武彦さん(享年54歳)は戦後の大きなミステリー事件といわれる「帝銀事件」の再審請求人で、この事件で犯人とされ死刑が確定したまま獄中で病死した平沢貞通死刑囚(享年95歳)の養子だ。

青酸化合物で12名を殺害、現金・小切手を奪取

「帝銀事件」とは1948年1月に帝国銀行椎名町支店(東京都豊島区)で起きた銀行強盗殺人事件だが、都の防疫部と名乗る男によって赤痢の予防薬と偽った青酸化合物を飲まされて12名が殺害され現金や小切手が奪われたという戦後の混乱期に社会を震撼させた事件だ。

 犯行の手口から旧陸軍関係者の事件への関与が疑われ、実際にその方面の捜査も行われていたが、事件から7カ月後に逮捕されたのは意外にも有名な画家の平沢貞通(当時56歳)だった。

 平沢は皇室に絵を献上したこともあるテンペラ画の巨匠だった。

 逮捕のきっかけは犯人が使った名刺の捜査上に平沢が浮上したことだが、その他にも次々と平沢を犯人とする情報が明らかになる。人相書きに酷似している、事件後被害総額とほぼ同額の預金をしている、家に青酸カリがあったと思われる等々……。これだけ辻褄が揃えば犯人とされても仕方がない。平沢の妻や子供も平沢が犯人ではと思ったという。

 平沢は1カ月後に自供を始めた。そして1955年に最高裁で死刑が確定する。