平沢支援に乗り出した作家・森川哲郎とその死
作家の森川哲郎が「平沢貞通氏を救う会」を結成したのは1962年7月のことだ。平沢は獄中で無実を訴えていた。森川は獄中の平沢と文通する中で平沢の無実を確信するようになる。逮捕の決め手は本人の自供だが、その自供が何ともあやふやなのだ。その上、もともと平沢には虚言癖もあった。
森川は署名集めなど精力的に平沢の支援を始める。その森川の長男が後に平沢の養子になる武彦さんだ。武彦さんは1959年生まれというから「平沢貞通氏を救う会」が結成された時は3歳ということになる。そして彼は父親の精力的な活動を目の当たりにしながら育っていく。
帝銀事件が起きたのは私の生まれる前だが、「帝銀事件」と「平沢貞通」という言葉は子供の頃からしばしばマスコミに登場した記憶がある。
1959年に松本清張が発表した「小説帝銀事件」ではGHQの関与に話がふくらみ、人々の興味をかきたてた。また、その小説をもとに1964年には熊井啓監督によって映画が制作された。青酸カリによる12人の殺害という事件の凄惨さと逮捕されたのが有名な画家という話は、いやが応でも巷の興味を煽る。
そして当事者の平沢は無実を訴え続けた。その結果、彼は死刑を執行されることもなく、かといって再審請求が認められることもなく、その後の人生を獄中でひたすら絵を描いて過ごすことになる。
そんな中で武彦さんが平沢の養子になったのは1981年のことだ。理由は高齢になった平沢に万が一のことがあったら再審請求を引継ぎたいという思いからだ。再審請求は本人が亡くなった場合は親族しか引継ぐことができないが、平沢の親族は縁を切っていたのだ。