悲運の「於大の方」を感じさせないキャラ設定

 家康の生母である於大の方もまた『どうする家康』では、新たなイメージが打ち出されている。於大の方がたどった過酷な運命をおさらいしておこう。

 於大の方は、刈谷城主である水野忠政を父に持つ。忠政は、緒川や大高などの知多半島北部、そして三河刈谷を支配。さらなる勢力を伸ばすため、今川方の岡崎城主である松平広忠と手を結ぼうと考えて、娘の於大の方を嫁がせることにした。

 そんな政略結婚によって、於大の方は16歳の時に、広忠との間に子を成している。幼名は竹千代、のちの徳川家康である。結婚した翌年のことだ。

 だが、家康の誕生からわずか1年後に、於大の方の父である水野忠政が死去。忠政の跡を継いだ息子の信元があろうことか、織田方についてしまった。

 これでは、今川方である松平広忠の立場はなく、妻と離縁せざるを得なかったといわれている(諸説あり)。於大の方は、まだ3歳の竹千代と引き離されることとなった。

1475年水野貞守が一族の菩提寺として創建した乾坤院(愛知県東浦町)

 上記の経緯を改めてふまえると、運命に翻弄された、どちらかというと可哀そうな女性というイメージが強い。ところが、今回の於大の方はバイタリティにあふれて、悲壮感のかけらもない。

 当初はそんなキャラ設定に違和感があったが、広忠のもとを離れた於大の方のその後を知れば、ただ弱弱しい女性ではなかったのではないかとも思えてくる。