瀬名が「築山殿」と呼ばれたゆえんをどう捉えるか
人質の交換によって、今川氏から妻を取り返した家康だったが、岡崎城には、すでに家康の生母である於大の方と、その夫の久松俊勝が入っている。瀬名は正妻の身でありながら、城外の築山という場所にもうけられた館に入ることになる。
瀬名が「築山殿」と呼ばれるがゆえんだが、この仕打ちもまた不仲ならではの処遇だと、とらえられてきた。あるいは、瀬名のほうが家康との没交渉を望んだのではという見方もある。いずれにしても、別居状態が不仲を裏づけるものと解釈されてきたのは無理もないことだ。
だが、今回のドラマでは、瀬名が「民の声を聞くために、岡崎城近くの築山に庵を開いた」という設定になっている。
「ここを誰もが気軽に立ち寄れる、民のための場所としたい」
思えば、民衆の気持ちをおざなりにした結果が、三河での一向一揆となった。一揆が起きたとき、瀬名は「同じ三河の国で争って。一つの家がバラバラじゃ」とこぼしている。家康に「あほたわけ!」と言いながらも、瀬名は「自分は何ができるか」を考えて実践していた・・・そんなふうに築山の庵に意味をもたせることで、不仲説を覆しながら、瀬名のまっすぐなところを印象づけるストーリー展開になっている。
そして、不仲説の第3の要因が、瀬名の悲劇的な最期である。3つのうちでも、もっとも大きな要因となるが、ドラマでは、瀬名が駿府の両親と別れるときに、母からかけられた言葉が伏線になるのは間違いないだろう。
「そなたが命を懸けるべき時は、いずれ必ずきます。それまで、強く生きなさい」
瀬名は三河のために、そして家康のためにどんな決意をし、どんな運命をたどるのか──。瀬名の動向は、これからの注目ポイントとして挙げておきたい。