NHK大河ドラマ『どうする家康』がいよいよスタートして、話題を呼んでいる。主演の松本潤演じる徳川家康は、次々と直面するピンチに頭を抱えて、しまいには逃げ出してしまう始末で、どうにも頼りない。ここから天下人へとどう成長していくのかが、本作の見所の一つだろう。ただ、いきなり「桶狭間の戦い」という山場を迎えるスピーディな展開に、戸惑った視聴者もいたのではないだろうか。第1回放送分の素朴な疑問について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
家康の呼び名である「東照大権現」って何?
「今日この平和があるのもすべては大御所、東照大権現さまのおかげ。まさに天が私たちに授けてくださった神の君でございます」
そんなナレーションから、NHK大河ドラマ『どうする家康』がスタートした。続くナレーションでは「我らが神の君は、いついかなる時も勇敢であらせられました」としながら、戦場から行方をくらませる、徳川家康の情けない姿が映し出されている。
ナレーションをいわゆる“フリ”にしながら、正反対の家康の実像を描こうというわけだが、「東照大権現」という言葉が耳慣れない視聴者もいたかもしれない。東照大権現とは、家康が亡くなったあとに贈られた神号のこと。「神の君」とあるように、家康は死後に神として崇められた。
偉業を成し遂げた歴史人物が後世の人々に惜しまれて、神格化されることは珍しくない。だが、家康の場合は、死後に神として祀るように自ら遺言で指示していた。家康に重用された僧の金地院崇伝(以心崇伝)が書いた『本光国師日記』によると、次のようなものだった。
「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ」
(私が死んだら遺体は駿河の久能山に葬ること。江戸の増上寺で葬儀を行い、位牌は三河の大樹寺に納めよ。一周忌が過ぎたら、下野の日光山に小堂を建てて、そこに勧請せよ)
「勧請」とは、離れた場所にいる神や仏に対して「こちらへ来てください」と祈り願うことをいう。そんな家康の思惑通り、死後は神格化が進められることとなる。
しかし、家康の死後、どんな「神号」にするかについて、意見が割れて揉めることになる。金地院崇伝は、「大明神」(だいみょうじん)という号がよいと意見を述べたが、それに反対したのが、同じく家康の側近だった僧の南光坊天海(なんこうぼうてんかい)である。南光坊天海は「大権現」(だいごんげん)号を主張した。
激論が交わされるなか決定打となったのが、南光坊天海のこの言葉である(『東叡山寛永寺元三大師縁起』)。
「亡君豊国大明神のちかきためしを覚して・・・」
豊臣秀吉に贈られた神号が「豊国大明神」であるため、「大明神」は避けたほうがよい。南光坊天海はそう主張したのだ。豊臣家が悲惨な末路を迎えたことが、その理由である。
豊臣家が家康の明確な意思によって潰されたことを思えば、「豊国大明神」に罪はないように思うが、縁起が悪いということらしい。家康の息子で2代目の秀忠が裁定を下し、南光坊天海が提案した「大権現」が神号として採用されることになった。
その後、幕府は朝廷に神号を奏請。朝廷から「東照大権現」「日本大権現」「威霊大権現」「東光大権現」の4つが提示されて、そのなかから「東照大権現」が、家康の神号に決定している。
さすがに自分の神号をめぐって論争になることまでは予想できなかったようだが、遺言で神格化を指示するあたりに、家康の用意周到ぶりがうかがえる。現時点の大河ドラマでは「気弱なプリンス」として描かれている家康だけに、これからどんな経験を経て、したたかさを身につけていくのだろうか。楽しみである。