連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
将軍に限らず武家にとって最も重要視される責務は、子孫をつくって家名を存続されることにある。
跡取りである男児の誕生は、将軍の務めであり、もし、子供をもうけることができなければ、次期将軍の座を巡り後継者問題が浮上しかねない。
江戸幕府の第2代将軍・秀忠は江戸城に家居し、駿府城に居住する大御所・家康の意を汲んだ二元政治体制を執った。
秀忠が徳川家の直轄領と譜代大名をまとめ、家康は外様大名の統括を担うものだった。
天下を自身の手で掴み取った家康。多くの戦を経験している2代の秀忠。
一方、幕府開府の翌年に生まれた第3代・家光は「生まれながらの将軍」と呼ばれていた。
家光には祖父・家康と同じ幼名である竹千代が与えられ、乳母には明智光秀家臣・斎藤利三の娘で稲葉正成室の「お福」(本名:斎藤福)があてられた。
家光が第3代将軍に就任すると、幕府の体制を盤石とする政策が次々と示された。
父・秀忠と大御所・家康が合議で政治を行なった二元政治を廃し老中、若年寄、大目付など幕府の職制を定め、家康が定めた武家諸法度を改め参勤交代を制度化する。
かつて徳川家に対立、反目した外様大名の財力を削ぐことで、反乱を起こしにくくするもので幕府265年の安定の礎となった。
また、切支丹禁止令、鎖国の実施により外国勢力を排除することにより、幕藩体制を盤石なものとした。
徳川家光は2代目将軍・秀忠の嫡子だが、幼少の頃より病弱で、言葉の発達が遅く吃音もあった。
そのため秀忠と正室・お江与の方は、2歳下の弟の国松(後の忠長)の方が家光より将軍にふさわしいと溺愛する。
母・お江与の方に隔てを置かれ、家光は思い悩んだ末に自殺を図るなど、将軍の座をめぐり家督争いの様相が次第に浮き彫りとなる。
こうした状況を憂いたのが乳母・春日局である。
春日局は、江戸城「大奥」の礎を築き、松平信綱・柳生宗矩とともに三代将軍・家光を支えた鼎の脚(かなえのあし)の一人に数えられる。
彼女は、もともとは稲葉正成の妻だったが、慶長9年(1604)、京都所司代・板倉勝重により市中に設置された「将軍家乳母募集」の看板を見て、家康の嫡孫・竹千代(家光)の乳母の公募に志願。
彼女が採用されると夫・正成は彼女との離縁を言い渡した。
江戸城に上がると、お福は竹千代の乳母として我が子のごとく愛情を注ぎ慈しんだ。
しかし、竹千代の次期将軍の座が危うくなると、竹千代の疱瘡治癒祈願のための伊勢参りを口実に江戸城を出た。
そして、当時、駿府にいた大御所・徳川家康に直訴した結果、家康からの言により家光が世嗣となった。
しかし、一介の乳母である「お福」が、なぜ雲の上にいるような駿府の大御所・家康に次期将軍の後嗣問題で直訴などできたのだろうか。