連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

男子禁制の大奥女中との密通、女犯を働いた僧侶の姦淫、この2つの衝撃的な醜聞に江戸中が大騒ぎとなった。「延命院日当話(月岡芳年:画(国立国会図書館蔵)」

 いつの時代でも、男は女を求め、女は男を求めるものである。

 江戸時代・享和年間、「延命院事件」という江戸中を騒がせる大事件が起こった。

 僧侶・日潤による前代未聞の女犯(にょぼん)事件だ。

 その相手には江戸城・大奥の女中が多数含まれ、大名や豪商の女中など59人と密通したという江戸を揺るがせた歴史に残る大事件である。

 東京都荒川区に現存する寺「延命院」は、慶安元年(1648)谷中(荒川区西日暮里)に創建された日蓮宗寺院。

 慶安元年、慧照院日長(えしょういんにっちょう)が徳川幕府三代将軍・家光の側室・お楽(らく)の方の安産の祈祷を命じられ、その御利益から翌年、嫡男・竹千代(4代将軍・家綱)を授かったとされる。

 これを受けて家綱の乳母・三沢局が開基となり日長により延命院は建立された。

 側室だったお楽の方も乳母・三沢局も延命院に帰依したことで、多くの大奥の女が、外出の口実に参詣し、子宝に恵まれる寺としても広く知られるようになる。

 家綱の将軍就任後、御三家、御三卿、さらに諸大名の奧向きから町方の女に至るまで篤い尊崇と庇護により盛況となるが、元禄以後には衰勢に向かった。

 開山から150年が経過した寛政8年(1796)、日潤が住職となると、美男のうえに美声による彼の説教や祈祷に心奪われる女性が続出する。

 その数は、うなぎ登りとなり連日女性信者が訪れる「押せや、押せや」の盛況ぶりとなった。

歌舞伎役者と見まがうほどの美貌の僧

 尾上菊五郎に先立ち襲名される名跡・尾上丑之助(うしのすけ)の初代丑之助は二代目尾上菊五郎である。

 父が初代・尾上菊五郎の丑之助は、その容貌は滅多に見ることのない無類の美男子で、ただの色男や二枚目役者とは比較にならないほど、気品のほかに妖しい魅力が備わっていた。

 彫りの深い凜凜しい顔立ち、輝くような魔性の魅力から放たれる甘い神秘性に、数多の女性たちが悩殺された。

 女からすれば震いつきたくなるような男の色気が漂う、非の打ち所のない美男子であった。

 遠くから丑之助を眺めただけで、大抵の娘は頬を染めた。目を潤ませて見つめる人妻もいた。

 丑之助の顔が忘れられずに発揚し、一晩中、彼を思い垂涎しながら身悶えたという女性が町中に溢れ、丑之助の周囲には常に女の人垣が築かれていた。

 当時、人気歌舞伎役者を豪商の後家や大奥の奥女中などの贔屓筋が、カネを払って男妾とする役者買いという習慣があった。

 そこで多くの金持ちの女が丑之助を渇望し、彼を抱きたい、抱かれたい、と順番待ちをして、いざ、自分の番となれば、丑之助の身体を夢中で貪りながら悩乱し、羞恥の狂態を演じながら女悦に浸ったという。