連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
織田信長は27歳の時、2万5000の大軍を率いる今川義元を、自身が率いる僅か4000人の兵で挑み、義元を討ち破った。戦国の世を揺るがせた「桶狭間の戦い」である。
その後、信長は中濃(美濃)攻略戦により支配勢力を拡大させ、以降、浅井長政や朝倉義景、武田勝頼といった有力武将を破竹の勢いで次々と打ち破りながら駒を進めた。
だが、羽柴秀吉に命じて行った中国攻略の最中、明智光秀に本能寺の変で討たれ横死。信長の亡骸は見つかっていない。
信長はそれまでの日本の常識を塗り替えた武将である。
ポルトガル伝来の鉄砲の重要さにいち早く気づき、長篠の戦いでの鉄砲隊の活躍は、それまでの戦の在り方を変えるほど戦国の世に大きな影響を及ぼした。
また、楽市・楽座など、特権的な座や独占販売の禁止したことで、誰もが自由に商売できるよう促進した。
商売をするためにかかっていた税金も免除するなど、それ以前の商取引の慣例を塗り替える経済政策を断行した。
うつけ者・たわけ者とは何か
戦国武将・太田牛一が記した『信長公記』によれば、信長には奇妙奇天烈な行いにより、周りから「大うつけ」と呼ばれていたとある。
「うつけ」とは暗愚な人、常識に外れた人を意味する。
『信長公記』には信長を「うつけ」だけでなく「たわけ」といった記載も散見できる。
「たわけ」とは動詞「婬(たわ)く」が連用形か、連用形が名詞化したもので、かな表記が「たはく」である。
その意は男女の正しからざることを指す。
「婬(たわ)」は、「たわむ」(れる)「みだ」(ら)を意味し、「婬」を含む言葉は「婬姒(いんじ:姒は、兄嫁の意)」「貪婬(たんいん)度を超えた色欲」「邪婬(じゃいん:配偶者以外の道に外れた性交)」などがある。
日本最古の歴史書『古事記』神武天皇巻には、
「かれ天皇崩りまして後に、その庶兄当藝志美美命、その嫡后、伊須気余理比売に婬(たは)くる時に・・・」
と、天皇亡き後、後家となった皇后が、亡くなった天皇の兄との濡れごとを「婬(たは)くる」の言葉で表記している。
『古事記』には、さらに「上通下通婬(おやこたわけ)」「馬婬(うまたわけ)牛婬・鶏婬」の表記があり「婬く」は近親相姦、または獣姦の意がある。
この「たはく」を江戸時代の国学者・橘守部は、
「たはけ。愚痴なるをたへけといふ、男女の交通(まぐわひ)の義(ことはり)に違へるすべてんみいへり」
と「婬け」が、逸脱した性愛行動であると明示している。