連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

大奥で語り継がれる女同士の戦いには、世継ぎである「胤」の存続という共通の目的がその背景にある

 江戸幕府3代将軍・徳川家光の4男として誕生した徳川綱吉。

 綱吉は、次期将軍となる兄・家綱を支えるために、父・家光のすすめで儒学、朱子学を学び、これが後に5代将軍・綱吉が目指した、武力に頼らず徳を重んずる文治政治の礎となる。

 将軍批判が御法度だった江戸時代だが、綱吉の醜聞は当時から世間に広く知られていた。

 父・家光が30歳を過ぎても男色に血道を上げていた一方、綱吉は男女ともに交わる二刀流であった。

 女性では大奥の女中だけでなく家臣の妻や娘のほか、綱吉が好意を寄せた女性に対し手当たり次第、欲情の赴くまま立ち振る舞った。

 3代将軍・家光が死去し、長男・家綱が江戸幕府4代将軍に就任するが、家綱には跡継ぎとなれる男子がいないまま40歳で死去。

 5代将軍を誰に決めるか、幕府内で議論があった。

 家光には家綱、綱重、綱吉の3人の息子がいた。綱重は病没するが、嫡男・綱豊がいた。つまり家綱の後継者候補は、弟・綱吉と甥(おい)の綱豊の2人だけ。

「将軍の器ではない」と周りから低い評価の綱吉。

 にもかかわらず綱吉が将軍に就いた要因は、水戸光圀が「次期将軍には将軍家に最も近い血縁である綱吉がふさわしい」と将軍に推したことによる。

 学問好きな綱吉は四書や易経を幕臣に講義し、また幕府直轄の学問所であり日本の学校教育において最初の機関・湯島聖堂を建立するなど綱吉の治世の前半は、善政として天和の治と称えられ長期政権となる。

 甥・綱豊が家宣として6代将軍に就くのは、それから30年後のこと。