「できない子」はやがて「したくない子」に

 わたしたちは、生まれたときからずっと「する」ことを求められてきた。行きたくなくても幼稚園、小学校、中学校に行くことを強いられる。

 子どもたちに「強いられてる」という意識はなくても、強いられていることに変わりはない。子どもたちはそこで、勉強を「する」、運動も「する」。塾に行かされる子もいるだろう。「友だちをつくり」、「先生や親のいうことに従う」ことも求められる。

 これらは人間の自由を制限する悪いことだ、といいたいのではもちろん、ない。わたしたちの人生は、ひたすら「する」ことを求められた人生だった、ということを確認したいだけである。

 まっとうな人間になるために、わたしたちは規則やルールといった社会性を学ぶ。その中から、子どもたちの自発的意思も育ってくる。

 そのために求められることは、とにかくなにかを「する」ことである。なかでも一番求められるのは学習意欲である。

 そこで「できる子」と「できない子」ができてくる。「できる子」はほめられる。「できない子」は叱咤され、激励され、それでもできないと、蔑まれる。

「できない子」はやがて「したくない子」になっていく。

「できる子」は有能とみなされる。しかし「できない子」は無能とみなされ、やがて自分でもそう思ってしまう。

 ますます「したくない子」になっていく。「君はそのままでいいんだよ」というおざなりの言葉は役に立たない(「トットちゃん」こと黒柳徹子は、小学校の校長先生からいわれた「君はほんとは良い子なんだよ」という言葉に救われたが)。

どんな仕事も「する」ことだらけ

 この「できる・できない」の単純な二分法は極端である。実際にはその間に、膨大な「普通の子」の層がある。

 が、しかし、有能・無能の評価じたいは、人の世にいつまでもついて回る。そして有能を中心にして世の中は回るようになっている。しかたのないことである。

 中学や高校を出たら働くか、大学を出てから働くかは人それぞれだが、どちらにせよ、生きていくために、人はなんらかの仕事をしなければならない。

 どういう会社に入り、どういう仕事をするかはさまざまだが、こんなときになって、かつての「できる子」と「できない子」の差が出てくるのである。

 そして仕事をはじめると、「する」ことだらけである。よくも毎日毎日、仕事があるもんだと嫌になるほどである。

 しかもただ「できる」だけでなく、より「早く」、より「手際よく」仕事をすることが求められる。それだけではすまない。