基地とともに生きてきた「社交街」
米兵達はベトナムの泥沼から這い出して一時休暇をもらうと、米軍オンリーのバーで明日をも知れぬ命に泥酔し、ヘビーロック、喧嘩、マリファナと大騒ぎだった。
米軍相手の歓楽街は、地元では社交街と呼ばれている。嘉手納基地ゲート前の交差点から少し歩くと、コザ吉原社交街があった。暗くなって吉原入り口と書かれた看板をくぐると、細い路地が左右に走り、入り口を開け放った狭い店が軒を並べていた。灯りで照らされた店の中からミニスカートの若い女性がこちらをじっと見たり、無視したりと、外を歩く客の関心を引いている。ここは非合法の売春地帯だ。
店の女性に話を聞く事ができた。
「ここは元々アメリカさん相手の店なんだけど、今は地元の人や観光客の相手もしてるわね。でもけっこう若いアメリカ人が多いかな。彼らはとても優しくて好感が持てるわね。稼げるかって? そんなに儲からないけど、基地が無くると困るかな。まあ基地は永久に無くならないと思うけど…」
と、彼女は愛くるしい目をこちらに向けて話してくれた。
その年、吉原社交街はとり潰された。社交街も、また、戦後の沖縄を象徴していたと言えるだろう。「基地はいらない」と「基地は必要だ」との間で、揺れ続けてきた沖縄。