シーサーがヘリを睨み据える(撮影:橋本昇)
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(フォトグラファー:橋本 昇)

 喜納昌吉の「花」という歌を聞くと、沖縄の人々が歩んできた歴史に思いが巡る。

「泣きなぁさいー笑いなーさぁーいー、いつの日か花を咲かそうよ」

「やっぱり沖縄は独立だ」と語る歌手の喜納昌吉さん。2010年撮影(撮影:橋本昇)
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 太平洋戦争末期の沖縄戦では多くの民間人が犠牲になった。敗戦後はアメリカ統治下での生活が長く続き、沖縄は基地の島になった。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、東西冷戦の中で沖縄はアメリカ軍の重要な拠点となった。その間も沖縄の人々は祖国復帰を願って声を上げ続けた。もちろん人々が心に描いたのは、美しい自然環境の中での穏やかな暮らしだ。

 1972年、沖縄は日本に返還された。しかし、米軍基地は残った。基地問題を抱えたまま、5月15日沖縄は本土復帰50周年の日を迎えた。基地が住民に及ぼす問題点は幾つもある。騒音、墜落事故の危険、街の発展への障害、そして心ない米兵の起こす事件とそこについてまわる「日米地位協定」の壁。

 1995年の米兵による少女暴行事件は記憶に残る事件だ。沖縄の人々の怒りは凄まじかった。当然、「出て行ってくれ!」の声は強くなる。宜野湾市で行われた抗議集会には約8万5000人の県民が参加したという。それでも米軍基地の縮小は一定の成果に留まっている。いまでも在日米軍基地の7割が沖縄に集中しているという状況は変わっていない。

 沖縄の人々は望むも望まないもなく、基地と暮らしている。それは12年前に取材した沖縄で、本土の人間として強く考えさせられた事だった。

民家と「隣り合わせ」の普天間基地

 那覇から車で北へ約10キロ行くと米海兵隊普天間基地を抱える宜野湾市がある。宜野湾市は人口10万人、リゾートホテルやコンベンションセンターのある沖縄第五の町だ。市内の嘉数展望公園の展望台に上ると基地の滑走路が見下ろせた。ここから見ると基地のフェンスのギリギリまで民家やマンションが迫っているのがよくわかる。

 公園を散歩中の男性が聞かせてくれた。

「アメリカさんは島の美味そうな所ばかりに目をつけて基地を造ったからね」

 地図で見ると基地は宜野湾市のほぼ真ん中を占めている。大型ヘリやC-130輸送機が2700メートルの滑走路に行儀よく並んでいる。時々風に乗ってエンジン音がここまで聞こえて来る。

C-130の離陸の風圧で洗濯物が揺れる
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