鎌倉の源氏山公園に建つ頼朝像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(15)10月21日、頼朝と義経、感動の対面
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67345
鎌倉殿への道(16)11月5日 頼朝、佐竹氏を屈服させる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67576
鎌倉殿への道(17)11月17日、頼朝、鎌倉に帰陣する
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67675
鎌倉殿への道(18)12月1日、平家軍を悩ませたもう一人の義経とは
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67676

鎌倉に入ってから4か月で誕生した「鎌倉殿」

 治承4年(1180)12月12日、鎌倉は晴天に恵まれ、由比ヶ浜には静かな波が寄せていた。夜に入って、頼朝はそれまで仮住まいしていた上総介広常の屋敷を出て、ようやく完成した新しい御所に入った。

 満天の星の下、御所には威儀を正した大勢の御家人が控えている。同じような星空の下、20人に満たない夜襲部隊を、祈るような思いで山木邸に送り出したのは、わずか4か月前のことではなかったか。

伊豆の蛭が小島・山木兼隆邸あたりの情景。頼朝がこの地で挙兵したのは、わずか4か月前のことだった…。

 のちに鎌倉幕府の正史として編まれた『吾妻鏡(あずまかがみ)』という書物は、12月12日のことを、次のように伝えている。

「これより東国の者たちは皆、頼朝の行いが道にかなっているのを見て、鎌倉の主として推戴するようになった。住む者とてほとんどない辺鄙な土地だった鎌倉にも、この時を境に道が通り、各所に地名もついて、家屋敷が建ち並ぶようになったのだ」(原漢文)

 武士たちによって推戴される鎌倉の主、すなわち「鎌倉殿」誕生の瞬間である。

海に面し、三方を山に囲まれた鎌倉の地は、武家政権の首都となっていった。

 イイクニつくろう鎌倉幕府。筆者の世代は、こんな語呂合わせで鎌倉幕府の成立を1192年と覚えたものだ。1192年=建久3年とは、頼朝が征夷大将軍に任じられた年である。ところが最近では、イイハコつくろう鎌倉幕府、と覚えるらしい。1185年=文治元年は、頼朝が全国に守護・地頭を置くことを朝廷から許された年である。

  鎌倉幕府がいつ成立したのか、という問題については、実は他にもいくつかの説がある。研究者の間で意見が分かれる中で、かつて主流だった1192年説はすたれて、今では1185年説を支持する研究者が多い、というわけだ。

 なぜ、幕府の成立をめぐる解釈が分かれるのか、という謎を解くカギは、8月の山木邸襲撃から、今日の御所落成式までの道のりの中に見える。

 頼朝は、最初から新しい武家政権を打ち立てよう、と意気込んで革命運動を始めたわけではなかった。最初は、追い詰められたあげくのイチかバチかの叛乱でしかなかった。

 一旦は叩きつぶされて同志を集めるうちに、反平家の叛乱軍から関東独立を目ざす革命軍へと脱皮し、戦後処理と足元固めを進める中で、少しずつ革命政府としての体裁をとるようになってきたのである。

 かくて産声をあげた「武士の、武士による、武士のための革命政府」は、この先、さまざまな敵を討ち果たしながら、少しずつ勢力を広げてゆく。あるいは、朝廷や貴族社会と政治的な駆け引きを繰り返しながら、少しずつ支配権を獲得してゆく。なので、その過程でおきるイベントのどれを、もっとも重要な画期と見なすかによって、「鎌倉幕府がいつ成立したか」の理解が違ってくるのだ。

 ただ、ひとつだけはっきり言えることがある。後世の歴史家がどう論じようと、教科書がどう書こうと、鎌倉幕府自身は治承4年(1180)12月12日を創立記念日と見なしていたのである。

  というわけで次回は、鎌倉幕府とは何か、鎌倉殿とは何かについて、もう少し考えてみよう。