頼朝の御所があったとされる「大蔵幕府旧跡」は鶴岡八幡宮の東隣にある。撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67345
鎌倉殿への道(16)11月5日 頼朝、佐竹氏を屈服させる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67576

組織を整えはじめた頼朝軍

 11月5日に、金砂郷山に籠もる佐竹勢を打ち破った頼朝は、そのまま常陸府中で戦後処理を行った。佐竹領は、内応した佐竹義季に一部だけが認められ、ほかは没収されて戦功のあった者たちに分配された。ちなみに、陸奥に逃れた佐竹秀義は、のちに頼朝に帰伏し、佐竹氏は御家人として再出発することになる。

 17日、鎌倉に帰った頼朝は論功行賞の一環として、三浦一族の和田義盛を侍所(さむらいどころ)の別当に任命した。侍所というのはもともと、貴人の警護に当たる武士たちの詰め所のことで、別当というのはその長官を指す。

菊池容斎『前賢故実』に描かれた和田義盛

 この場合の侍所別当とは、頼朝に伺候する武士たちの勤務シフトや、出陣に際しての陣立てを配置を差配する責任者だ。さらに頼朝は、挙兵以来つづいてきた戦いで敵味方に分かれたり、帰参した者たちの処遇を決め、所領の分配を処理していった。

 おわかりだろうか。頼朝の率いる叛乱軍は、少しずつ組織を整えはじめたのである。

 もともと頼朝の挙兵は、追い詰められた流人の一か八かの暴発だった。それでも、山木兼隆を討って挙兵の形が整うと、以仁王の令旨を旗印とし、平家打倒を大義名分とする叛乱の体裁をとるようになった。

 しかし、石橋山の合戦でコテンパンにやられ、房総に渡って再起を期すなかで、千葉常胤・上総介広常といった有力者たちが仲間に加わり、叛乱はいつの間にか関東独立を目ざす革命運動のようになってきた。

石橋山古戦場。8月に伊豆で挙兵した頼朝は、直後に石橋山の合戦で惨敗し、辛うじて安房に逃げのびた。

 富士川の合戦ののちに常陸へ転進したことによって、この方向性が一層はっきりした。頼朝の率いる集団は、叛乱軍 → 革命軍 → 革命政府へと性格を変えつつあったのだ。ここで大切な意味をもったのが、戦後処理と論功行賞だった。

 頼朝に帰参した武士たちは、頼朝と主従関係を結ぶ。すなわち、武士たちは主君=頼朝のために武力を提供し、頼朝の命令に従って戦う。その見返りとして、自分たちの所領や利権を保障してもらう。

 なぜ、頼朝が彼らの所領・利権を保障できるかというと、彼らの所領・利権を侵害した者を討ち果たすように、配下の武士たちに命じるからだ。実際、頼朝軍が佐竹氏を討ったことによって、千葉常胤は佐竹氏に奪われていた利権を取り戻すことができた。頼朝の主催する革命軍は、武士たちにとっては集団安全保障体制のようなものとなったのだ。

千葉常胤像。佐竹氏と長年対立をつづけてきた千葉氏は、佐竹氏の討伐によって所領を回復することができた。

 しかも、敵を討ち果たせば、没収した所領・利権は、戦功のあった武士たちに分配される。頑張って結果を出せば、配当を得られる集団安全保障体制なのだ。これは、武士たちにとって魅力的だ。いや、それどころか、もたもた参加をためらっていると「あいつは平家方だ」と見なされて、攻撃されかねないから、どんどん参加者が現れる。

 常陸から帰陣したのち、頼朝は数年間にわたって自ら鎌倉を出陣することなく、体制固めに専念した。従う者が増えて集団が大きくなると、武士たちを統制する組織が必要になるからだ。主従関係をベースとした全く新しいスタイルの、武士たちの政府が、少しずつ形を整えつつあった。

※次回は12月1日に掲載予定。叛乱続発で都の平家は大わらわ。