鶴岡八幡宮 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(15)10月21日、頼朝と義経、感動の対面
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67345
鎌倉殿への道(16)11月5日 頼朝、佐竹氏を屈服させる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67576
鎌倉殿への道(17)11月17日、頼朝、鎌倉に帰陣する
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67675

頼朝軍が勢力を伸ばしていた頃、平家は?

 治承4年(1180)10月から11月にかけて、頼朝が富士川の合戦で平家軍を「撃退」し、常陸に佐竹氏を攻めている頃のこと。信濃で挙兵した木曽義仲は北へ勢力を広げ、さらに上野に進んで、地元の武士たちを支配下におさめようとしていた。

 11月末の時点で、南関東一円と常陸・下野の大半は頼朝の実効支配下にあった。信濃と上野の過半は木曽義仲の勢力下にあったし、甲斐と駿河は甲斐源氏一党が押さえていた。これらの地域は、朝廷の支配下から離脱していたのである。

 そればかりか、尾張・美濃・近江でも反平家方の武士たちが蜂起して、都の平家は対応に追われていた。中でも厄介だったのが、近江の山本義経である。

 河内源氏の末裔と称する山本義経は、近江で一応の勢力を築いていたらしいが、平家方の勢力と対立してしばらく佐渡に流されていた。赦免され近江に戻ってほどなく、伊豆で頼朝が挙兵したと聞いて、自らも地元の武士たちと語らって兵を挙げたのである。佐渡に流されたことで平家に恨みを抱き、失地回復をもくろんで挙兵したのであろう。

 問題は、近江という土地がらにあった。近江は、もちろん都のすぐ隣にあって、貴族たちの荘園も多いが、それだけではない。琵琶湖の水運は、東山道や北陸道の諸国と都とを結ぶ流通の大動脈だったのだ。

現在の琵琶湖 写真/アフロ

 その近江で叛乱が起きて、交通路が寸断される状態がつづくと、東山道・北陸道方面からの物流がストップしてしまう。平安王朝の貴族たちが、支配者として贅沢三昧な暮らしをつづけられるのは、全国各地の土地と人民が生み出す産物を、租税や年貢として都に吸いあげているからだ。これは、貴族社会にとって死活問題であった。

 事態を憂慮した平家方では、平知盛を指揮官とする討伐軍を送り込むこととした。知盛の討伐軍は12月1日、山本義経の本拠地に押し寄せ、義経や配下の武士たちの屋敷を片端から焼き払った。

 さしもの山本義経も、これには抵抗をあきらめて逃亡するしかなかった。しかし、叛乱の火種はそこら中に転がっており、平家方の対応はモグラ叩きの様相を呈しつつあった。

 清盛がとくに警戒したのが、近江の園城寺(三井寺)と奈良の興福寺である。園城寺と興福寺は、強大な僧兵勢力をもっているし、以仁王の挙兵にも関わっていた。興福寺など、これまでも平家に反抗的な態度をとりつづけている。叛乱が続発する中で、なんとか権力を維持したい清盛は、重衡(しげひら)の率いる討伐軍を奈良に差し向けることとした。

現在の興福寺 写真/アフロ

 12月11日、重衡の討伐軍は興福寺の僧兵と戦闘になり、南都と呼ばれた奈良の街は兵火につつまれた。この火災で、東大寺の大仏殿も焼け落ち、聖武天皇の建立した大仏も、溶けかかった無残な姿をさらすことになった。

現在の東大寺盧舎那大仏。中世、近世に焼損し、大部分が補作されたため、当初に制作された部分で残るのはごく一部である。写真/アフロ

 同じ頃、鎌倉では頼朝の御所を建てる工事が、急ピッチで進められていた。頼朝に従った武士たち、すなわち御家人たちもおのおの屋敷を建てていたし、頼朝は関東の各地から僧侶を招いたりしたから、鎌倉はにぎわいを増していた。関東の一隅に、〝革命政府の首都〟が生まれつつあったのだ。

鶴岡八幡宮から一直線にのびる若宮大路を基線として、鎌倉の街造りは進められていった。撮影/西股 総生

※次回は12月12日に掲載。ついに鎌倉殿が誕生します。